以心伝心の良し悪し
~日本的自己主張の伝統~
さて、前回まで京都式のコミュニケーションやご挨拶の伝統としきたりについて書いてきたが、これらは決して京都独特、あるいは京都に限られたことではない。探せは全国的な挨拶の定番として似たようなことをやっているのである。
たとえば、知り合いが訪ねて行って手土産を渡して
「つまらないものですが」
ここで「つまらないものなら持って来るな」と言ってはいけない。相手も本当に「つまらないもの」だと思っているわけではない。本当は「これは高いねんぞ」とか「奮発して来たったんやぞ」とか思っているわけである。
で、もらったほうもその訪問者に食事を出して
「何もありませんが」
と言う。もちろん本当に何もないのではなく本当は「わかってんのか、スキヤキやぞ」とか「こんだけ用意したんやぞ、ごちそうやぞ」とか思っているわけである。
これが日本の常識である。
また、あるいは、ちょっとした「偉業」を成し遂げた人が
「いやあ、大したことないです」
とか言ったりする。これも内心では「どや、大したもんやろ」と思っているわけである。
さて、こういった物の言い方について「日本人は自己主張しない」と言われ続けた事があった。最近ではどうか知らないが昭和の時代には
「外国人はちゃんと自己主張するのに日本人はしない」
とか
「こんな言い方はおかしい」
とか批判する人たちもいた。まあ、分析も掘り下げもない定番の批判だったのだが。
しかし、「日本人は自己主張をしない」というのは間違いで、ちゃんと自己主張しているのである。ただ、その自己主張の表現の仕方が欧米とは違うだけなのである。
西洋なら手作りのクッキーか何かを出して
「これ、とっても美味しいのよ」
と言うところを、日本なら
「お口に合うかどうか分かりませんが」
とへりくだって言う。これだって実際は「美味いねんぞ」とか「上等やねんぞ」とか「金かかってんねんぞ」とか思っているわけである。
日本人も欧米人のようにちゃんと自己主張している。ただ、
その自己主張の仕方が違うのである。
ストレートに表現しない。あるいは逆の形で表現する。
これが日本人の自己主張である。
欧米の感覚からすればこれは自己主張していない、ということになるのだろう。しかしそれは本質を見ていない。
自己主張をしないという自己主張。
これが日本人の自己主張である。
まあ「謙譲の美徳」というやつかもしれない。しかし、必ずしも「謙譲」とは言い切れない。
「つまらないものですが」と言って手土産を出す方はそれを本当は「上等や」と思っている。言われた方もそれを承知している。これもまた「阿吽の呼吸」なのである。
このあたりは行き過ぎると、いわゆる「腹芸」に通じるのかもしれない。つまり、はっきりと言わずに相手に理解させる。つまり「真意」を忖度させる。この辺が「以心伝心」というやつだ。
これがさらに行く所まで行くと「空気を読む」になるのだろう。だんだん暗く、ネガティヴになって行くのだな。
そしてさらに許容範囲の境界線を越えると政治家や重役の
「善処せよ」
になって、責任の所在を曖昧にするお手軽な方便となる。
ここまで来ると困ったものになるのだが、だからといって「日本人式自己主張の仕方」を否定することもない。
日本人の「あたりまえ」をどうして欧米の基準で判定しなければならないのか。もちろん、外国人を相手にする外交官やビジネスマンには欧米的自己主張も必要である。しかし、普通の日本人が日本で生活している日常の現場では、日本式自己主張こそが常識なのである。外国人が「何故、日本人はしっかりと自己主張しないのか」と疑問を呈しても、「それは感覚が違う」と日本のやり方を教えればよい。欧米人はそれを聞いて戸惑うかもしれないけれど、それはそれでそのままで良い。「ありのままを知れ」と言えばよいだけのこと。
日本人もちゃんと自己主張しているのである。
【言っておきたい古都がある・204】