堀川通り発掘
〜堀川通りに七不思議があった〜
前々回で私が制定した平成版・京都七不思議をご紹介したが、有名な知恩院七不思議の他にも京都には「七不思議」がある。
そのひとつが「堀川通りの七不思議」なのである。どのようなものか、以下に記す。
①紫式部墓
②菅公登天石(水火天満宮)
③百々(とどの)橋
④晴明井(晴明神社)
⑤五芒星の額束(晴明神社)
⑥一条戻橋
⑦小町草紙洗いの水
⑧佐女牛井(さめがい)
⑨梅ヶ枝の手水鉢
⑩芹根の水
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何が不思議かと言って、七不思議が七つ以上ある。それなら「七不思議」ではなく、京都の「不思議」とシンプルに決めてしまえばなんでもない話なのですが、「七不思議」という言葉はすっかり定着してしまっているので、今さらどうしょうもないのだな。
①紫式部墓
堀川北大路から堀川通を南へ約100メートル下った道路の西側(北区紫野御所田町)にある。
入口の右側に紫式部墓所と記した石碑、左側に小野篁卿墓と記した石標が立つ。短い参道奥の右手に紫式部墓と記した石標があり、その奥に高さ約80センチほどの小振りな五輪塔が立っている。
手前の同じような五輪塔は小野篁墓という。
式部墓は、もと雲林院の子院であった白毫院に小野篁墓と並んであったが、のち白毫院が廃されて式部墓は行方知れずになった。白毫院が近世に千本閻魔堂(引接寺)に移されたことから、式部墓は閻魔堂にあるという説もある。
白毫院の故地には、織田信長の菩提を弔う総見院が建立されている。式部墓はいずこにあるのか、または無くなってしまったのか、さて、どうであろう。
これが本物かどうか分からない、というだけでも不思議である。
紫式部とか清少納言とかはお墓やら何やらがあちこちにあるな。しかし、墓が消えたというのは前代未聞。こんな超有名人の墓が行方不明なんて、やっぱり平安時代は女性の地位が低かったのでしょうかねえ。。。
しかし、行方知れずになつた墓が突如として小野篁卿墓と並んで出てくるのだから、不思議である。もう完璧に不思議。
②菅公登天石(水火天満宮)
水火天満宮(祭神は菅原道真)は上京区堀川通寺之内上ル東入扇町にある。菅公登天石は南向きの本殿の左手傍らの石。その由来によれば、菅原道真の死後、都では天変が相次ぎ、人々は道真の怨霊のせいと信じた。大雨が続いたので、時の醍醐天皇は延暦寺の法性坊尊意僧正に祈祷を命じた。
尊意は山を降りて宮中に急いだが、途中賀茂川まで来ると川が増水しており渡ることができない。尊意が祈祷すると、不思議なことに水流が二つに別れ、石の上にいた道真の霊が昇天して大雨もやんだという。そのありがたい石を供養し、登天石と名付けた。この石は、火難水難除けの御利益はもちろんのこと、迷子が無事戻るという信仰がある由。
坊さんがご祈祷をしたら水が二つに割れたというのは、旧約聖書にあるモーセが海を二つに割ってユダヤの民族を渡らせた、というエピソードと同じである。
やはり人間の考えることは似ているのだろうか。
ちなみに、菅原道真の怨霊伝説の真相は、私の「京都ミステリー紀行・東山編」で暴露しています。
さて、堀川と言いますと、「京都ミステリー紀行・陰陽師編」で通った場所である。ここで紹介している「不思議」の中には私のツアーで説明しているものもある。ただ、若干、違う説明もしておりますが。
それはそれとして、「七不思議」としての堀川通りを続けてみていく。
③百々(とどの)橋
堀川通寺之内東入ル百々町の尼門跡宝鏡寺の東にあった小川(こがわ)に架かっていた長さ四間余りの橋をいう。近世に板橋を改めて石橋にしたという(『雍州府志』)。
『京都坊目誌』に「今昔物語に百々の辻子あれば平安京中期の開通ならん。小川の流れに架す。石橋なり。長さ四間一分幅二間二分。都下の名橋なり」とある。更に『京都坊目誌』四に「この橋、幽雅にして野趣あり。街道を往復する者、ここに休憩す」とあり、なかなかの名橋であったようだ。『応仁記』によると、この橋を挟んで西軍の山名方と東軍の細川方が何度も合戦を行ったという。『京羽二重』織留などは、この橋を古戦場と呼んでいる。現在、橋の礎石が寺之内通と小川通の西角に置かれている。縦横80センチ、高さ70センチのかなり大きな石で、真中に直径48センチの丸い穴が穿れている。実物はどういうわけか、洛西竹林公園に移築されており、百余りの竹類が取巻く中、貴重な点景として異彩を放っている由。
やっぱり出てきますね、何が不思議なのかが分からない不思議が。しかし、この手のものも慣れてしまえば不思議でもなんでもなくなり。。。。と、と、と、ややこしくなりそうだ。。。
まあ、かつては応仁の乱の古戦場だったというだけのこと。「京都ミステリー紀行・陰陽師編」をやっていたとき、たまにお客さんからの質問で応仁の乱に関する真実を話したことがある。またやろうかしらん。
④晴明井(晴明神社)
晴明神社は、堀川今出川から堀川通を約250メートル下がったところ(上京区葭屋町通一条上ル晴明町)にある。平安中期の陰陽博士安倍晴明を主神とし、倉稲魂命(うがのみたまのみこと)を合祀する。
社伝では寛弘四年(1007)一条天皇の勅旨により、晴明の邸跡に創建されたという。晴明は星座の急変するのを見て花山天皇の退位を予知したという。晴明井は二の鳥居を入った右手にある。古より湧き出ていた洛中名水の一つで、諸病平癒の信仰を集める。数年前までは飲用不適であったが、最近整備されて飲用可能になったようだ。駒札に、流水口が本年の恵方(えほう)を向いており吉祥水が得られるとある。
この井戸は実物を見た方はお分かりだろうが、近年出来たものである。「伝説の井戸」そのものは平安時代にはあったし、地下水も絶えることなく流れていたが、現在の綺麗な井戸は私が初めて「京都ミステリー紀行・陰陽師編」を催行した時にはなかった。もちろん、今現在、境内にある「桃」もなかった。全てあの陰陽師ブームによって大金が転がり込んだので出来たわけである。本殿も綺麗になったし。
ただ、以前の神社を知っている人の中には「昔の方が味わいがあって良かった」と仰る方もおられる。しかし、お化粧直しがなって綺麗になった本殿も、あと50年もしたら昔と同じ味わいが出てくるのではないだろうか。
ちなみに、先年、この神社と隣の陰陽師グッズの販売店とがモメたのは報道もされたのでご記憶の方も多いだろう。神様の道よりお金の道の方が厳しいようである。
何はともあれ、観光は点と点とを繋ぐのではなく、全体を面でとらえるのが私の手法だが、「線」で巡るというのが堀川の「七不思議」を利用した昔の観光戦略だったのかもしれない。
⑤五芒星の額束(晴明神社)
入口の石鳥居の額束には、晴明ゆかりの五芒星が記されている。額束には神社名とか大明神とかが掲げられるのが普通で、このような額束は珍しい。
このシンボルはユダヤのマークと似ている。似てるというより同じか。それが不思議かも。
⑥一条戻橋
上京区一条通の堀川に架かる小橋。平安京遷都以来、その位置が変わらないということで歴史的にも貴重な名橋。藤原行成の『権記(ごんき)』に初見する古い橋。
名前の由来は、延喜十八年(918)文章博士の三善清行とその子の浄蔵貴所の親子物語で、『都名所図会』に「三善清行死するとき、子の浄蔵、父に逢はんため熊野・葛城を出でて入洛し、この橋を過ぐるに及んで父の喪送に遇ふ。棺を止めて橋上に置き、肝胆をくだき念珠を揉み大小の神祇を祈り、つひに咒力(じゆりき)陀羅尼(だらに)の徳によつて閻羅王界に徹し、父清行たちまち蘇生す。浄蔵涙を揮ふて父を抱き家に帰る。これより名づけて世人、戻橋といふ」とある。
この記事の元ネタは鎌倉時代の説話集の『撰集抄』。江戸期の地誌がこぞって取り上げた洛陽の名橋である。この戻橋には、源頼光の家来渡辺綱がある夜、美女に化けた鬼に出会いあやうく一命をとりとめたとか(『平家物語』)、安倍晴明が橋下に式神を封じ込めたととか(『今昔物語』)、平清盛の妻二位禅尼が娘の建礼門院の難産で橋占をしたとか(『源平盛衰記』)、豊臣秀吉が千利休の木像を磔(はりつけ)にしたという話が伝わる。近年でも、戦時中には出征する兵士がこの橋を渡って無事に帰ってくることを祈ったとか、婚礼の行列はこの橋を渡ってはならないとか、さまざまな伝説・伝承が残されている。現在の橋は平成七年建造と新しい。
「伝説の橋」というにはピカピカで新しさ丸出しのため、今では札幌の時計台、土佐のはりまや橋と並ぶ「日本の3大期待はずれ名所」とされている。
さて、渡辺綱を襲った鬼だが、通説では茨木童子とされているが、かねてより私はそれは違うのではないか、という仮設を立てて検証中であるものの、中々上手くいかない。しかし、いずれ茨木童子の冤罪を晴らせる時が来るのではないかと思っている。
ちなみに、私の「京都ミステリー紀行・陰陽師編」でこの渡辺綱と鬼の話を詳しくしています。現在、定例のツアーからは外していますが、予約は承りますので、お気軽にお問い合わせください。
ということで次に移るが、堀川の七不思議と気安く思っていると、かなり長い通りなので七不思議を歩いて制覇するのは中々大変かなと実感する。
⑦小町草紙洗いの水
一条戻橋の東二筋目の小町通を少し上った左手にあったとされる井。名前の由来は謡曲「草紙洗小町」にある。
小野小町の才色を妬んだ大友黒主が、万葉集に細工して小町の和歌を誹謗。この万葉集が記された草紙をこの井の水で洗い流すと元の和歌が現れて小町の身の潔白を証明したという。この話は謡曲「草子洗小町」となって今に残る。元は晴明神社の飛び地境内であったともいうが、現在は民家が建ち並んでいる。清和水とか更級水とも呼ばれ、この水を使うと小野小町のようにと美人になるとされていた。
現在は一条通と小町通の西北角に「小野小町双紙洗水遺跡」と記した石標があるのみ。
小野小町というのも伝説の多い人で、美人で有名だったのは江戸時代から奇麗な人のことを「〇〇小町」といったことでも明らかだが、百人一首では後ろ向きで顔が分からない。そこから「本当はブスだった」というギャグも生まれるのだが、「本当はブスだった」のは小野小町ではなく別の人なので、小町にとっては迷惑なギャグですね。
百人一首の小町の絵が後ろ向きなのは、あえて顔を隠すことによってその絵を見る人が持っている「美人」のイメージをかき立てるためである。それを見る人のイマジネーションに訴えているのだな。
⑧佐女牛井(さめがい)
下京区佐女牛井町にあった京師七名水の一つ。醒ヶ井ともいった。源頼義がこの地に築いた六条堀川邸の井戸と伝える。
しかしこの名高い醒泉も、戦時中の堀川通の拡幅で消滅してしまった。堀川五条下ル西側の故地に「左女牛井跡」碑が立つ。
さてお立会い。堀川の七不思議は一条戻り橋から一気に西本願寺の近くまで飛んでしまいました。もっとも、これだけ途中に何もないとバスで移動できるので却って便利かもしれませんな。
ちなみに、西本願寺前かつての佐女牛井の場所は今では立派なビルになり一階はローソンだが、隣に佐女牛井を利用した庭のようなものが出来ている。この連載でも「一期一会のアート・後編」で紹介した。西本願寺を参拝した後ここに買い物に来たら、話の種に一度ごらんになればよいと思う。中々「不思議」な感じがするので。。
⑨梅ヶ枝の手水鉢
堀川通の一本西にある西堀川通と木津屋橋通の交差点の北東角にある。現物は何の変哲もなさそうな長方形の石なので、これが手水鉢かと驚く。この手水鉢のいわれはこうである。
源平宇治川合戦で遅れをとった源氏の武将梶原影季は源頼朝の不興を買い、やがて女房千鳥は神崎の廓で、遊女「梅ヶ枝」にまで身を落とした。
寿永3年(1184)影季は一ノ谷合戦に出陣を願っていたが、頼みの鎧は借金三百両のかたに質入中。この時梅ヶ枝がお金の工面を祈ったというのがこの手水鉢。手水鉢を必死で叩くと不思議なことに小判が降ってきて、このお金で影季は無事出陣できたという。假名垣魯文作の歌舞伎「ひらかな盛衰記」の一節である。明治から大正にかけて次の俗謡が流行した。
♪梅が枝の手水鉢
叩いてお金がでるならば
若しもお金が出た時は
その時や身請をそれ頼む
これは明治から大正にかけての歌だそうだが、私は時代劇(つまり舞台は江戸時代)の中でこれが唄われていたのを聞いたことがある。こっちの方が不思議だな。
まあ時代考証について重箱の隅をつつくようなことを言うつもりはないが、たまにこういう「ミス」が出てくるのもドラマの面白さかもしれない。
ちなみに、時代劇の冬の場面で鍋を食べながら「白菜の美味しい季節になりましたね」というセリフが出てくればそれもアウト。白菜が日本に入ってきたのは明治になってからで、江戸時代にはなかった。意外なことに、江戸時代から日本にあったのはキャベツ。何か逆のような気がしてしまうのだが。
この手水鉢は、戦時中に行われた堀川改修の際に発見されて鑑定の結果、本物であることが確認されたという。
「不思議」というのは伝説の範疇だが、本物があるというのは珍しいかも。もっとも、何故手水鉢にお金の工面を祈るのか良く分らないのだが。
金運を呼ぶ手水鉢というのも珍しいだろう。
⑩芹根の水
西堀川通木津屋橋下ル元安寧小学校の西の塀際にある。江戸期には、堀川西岸のたもとから清泉が間断なく湧出していたという。これを芹根の水という。また、ここから東山の渋谷峠にかかる月を見るのを「田毎の月」といい、名月鑑賞の場としても有名であった。
間断なく水が湧き続ける、というのも「不思議」らしい不思議といえようか。
しかし流石は京都。水にまつわる「不思議」が多い。実際、多く見積もる学者になると、京都の地下水の量は琵琶湖の水量とほぼ同じだと言う。つまり貯水タンクの上に町が乗っかっているようなものである。これだから酒造りも出来るのだが、逆にこれだから地下鉄を作るのが大変なのだな。普通に掘れば水が出てしまう。で、水が出る心配のないところを掘れば遺構がでる。戦々恐々として掘らねばならない。不思議がってる場合ではないのだな。
さてみなさん、お暇があれば堀川通りの七不思議を巡ってみては如何だろうか。西本願寺だとか二条城だとかの有名どころだけが京都ではないのである。
【言っておきたい古都がある・64】