続豊臣秀吉アラカルト(後編)
~見る目が違えばものは変わる~
先週に引き続き、豊臣秀吉ネタのそうざらえ、後編。
まずは朝鮮出兵に絡んで。
朝鮮出兵の和平交渉で秀吉が最初に掲げた条項。
「天と地の違わざる間は、契約に相違あるべからざること、大明の帝王の姫君、日本帝王の后として相渡さるべきの由、申すべきこと」
これも凄い。朝鮮出兵は日本が負けたのに相手にこんなことを云ったらまとまる訳がない。それに、ここにある「日本帝王」というのは天皇陛下のことか? それとも秀吉自身のことか?
ところで朝鮮使節の見た秀吉というのは
「顔が小さくてくしゃくしゃ、真黒で落ち着きのない人物であった。黒い冠をかぶり袍を着て、頭も服も黒ずくめ、眼だけがキラキラしていた」
どうもあまり高貴な印象を与えなかったようである。
その秀吉だが、金に困っている大名がいると普請を申し付けた。何故かというと、見積もりを水増ししてその分の予算を与えたり、工事日数を大名が国許を出発した日から数えてその分も経費として認めるなど、事実上の資金援助をしたから。大名に金を使わせるために普請を強要した徳川家康とはエライ違いである。
豊臣秀吉の死に纏わる隠れたエピソード。
朝鮮出兵の和平交渉に沈惟敬が交渉使として来日し、秀吉に謁見した。
その時、「長旅の疲れを癒す薬」だとして黒い丸薬を飲んで見せた。体力の衰えを自覚していた秀吉はその薬を所望し、翌日、沈惟敬は自分も飲み、秀吉にも飲ませた。
実はこの時の丸薬には遅効性の毒が仕込んであり、そのため秀吉は思い病の床についた。沈惟敬は謁見後に解毒剤を飲んでおいたので無事だった。
と、言う人もいるのだが。。。
これは事実ではないな。毒ならすぐ効く、すぐ死ぬ。
たとえば砒素を毎日少しずつ飲ませてゆっくり殺すというなら分かるが、1回や2回飲んだだけでしっかりと効き目のある遅効性の毒薬なんてありえないだろう。
朝鮮出兵で多くの朝鮮人が日本に連行されたというエピソードに間して。
朝鮮出兵で日本につれてこられた朝鮮人はたくさんいるが、徳川政権になってから朝鮮との国交回復交渉でこのとき連行された朝鮮人を帰還させることになった。
ところが、みんな喜んで帰るかと思いきや、日本で陶芸家として暮らしていた人たちは「帰りたくない」と言ったのである。
そりゃそうだろう。国に帰れば陶工の社会的地位は低い。しかし日本にいれば「先生」なのである。薩摩などは朝鮮人陶工を五人扶持で召抱えたというから、今風に言えば「地方公務員として採用してもらった」わけだ。帰りたいとは思わないだろう。
ちなみに、朝鮮人陶工が日本で一番感激したのは、作品に自分の名前を書けることだった由。
最後の最後に秀吉の人となりを示すエピソード。
朝鮮出兵の計画中、薩摩に漂着して薬屋を営んでいた許宣後という明国人が実はスパイで、日本の情勢を探って本国に通報していたのが発覚した。
スパイだから当然の事として法律の通り釜茹でにするべきなのだが、秀吉は
「明国人が明国のために働くのは当然」
だと言って、何と許宣後を釈放してしまったという。
全く、度量が大きいというべきか、甘いというべきか。
ま、大人物というのは人間の幅が大きいものなのだとは理解できますが。
うがった見方をすれば、このとき秀吉が許宣後を釈放したのは、そのことを明に報告させて自分(秀吉)の度量の大きさを示そうとしたのかも。
しかし、許宣後さんはその後どうなったのかな?
いまだに人気のある豊臣秀吉だが、まだまだネタとして使われていない史料がたくさんある。たとえば宣教師の手紙や日記など。
それらによると、テレビドラマなんかでは織田信長は秀吉(木下藤吉郎)のことを「サル」と呼ばせるのが定番だが、宣教師史料によると実際は「ロク」と呼んでいたらしい。
このあたり、まだまだ新しい話題が提供できそうである。
歴史に対する興味は尽きないのだが、取り留めのない話になった今回のネタはこれでお開きにしよう。
【言っておきたい古都がある・90】