豊臣秀吉アラカルト(前編)
〜探せばまだまだある豊臣秀吉の遺産〜
私はこの連載で過去4回、豊臣秀吉のネタを取り上げている。第5回・、第17回〜21回・、第27回・、第28回・、以上4回である。大仏物語などは5回に渡る連載になった。
しかし、それでも「秀吉ネタ」というのはあるもので、今回と来週の2回に渡り「小ネタ集」的に見所をご紹介する。
まずは妙法院。言わずと知れた三十三間堂の本坊である。ということは、つまり三十三間堂の拝観料はここの懐に入る、などと言うと叱られてしまうかな。
ここの庫裏は国宝に指定されている。国宝の庫裏というのは松島の瑞巌寺とここだけ。日本に2ヶ所しかない。特に妙法院の庫裏は本堂よりも大きい。なんと言ってもこれが凄い。
元々は後白河法皇が新熊野神社を勧進した時にその里坊として作らせた寺であるが、豊臣秀吉がかつての後白河法皇の領地を皇室から買い取ったとき、ここも秀吉の所有になったということ。京都の大仏様の話しを書いたとき、千僧供養についても書いたが、その時ここの庫裏が活躍した由。逆に考えると、秀吉は千僧供養に必要な庫裏を作るためにこの寺を整備し直したということ。だから本堂はとても小さくなってしまった。
庫裏を作るためにお寺を再建したとなると、仏様もビックリだろう。
ところで、妙法院の宝物にインドの副王から秀吉にあてた手紙がある。しかしインド副王の手紙なのにポルトガル語で書いてあるのだ。「え?」と思われるかもしれないが、その当時のインドはポルトガルが支配していたと考えれば平仄が合う。日本では戦国時代が終わり、やっと安定した世の中になったかと思っても、周辺のアジア諸国にはヨーロッパの重商主義が否応なく押し寄せていたのだった。
写真に「豊国廟」とある通り、この坂をずっと登って行き、石段をあがれば豊臣秀吉の墓に行き着く。
ところでこの坂、別名を「女坂」と言う。何故かというと、この坂の上には京都女子大があるから。短大も高校も中学もある。で、毎朝、学校へ行く女の子たちがこの坂をゾロゾロゾロゾロと登っていく。そこで「女坂」なのだな。ひところ、この坂の上から全速力で走り降りてくる「暴走自転車」が評判になったが、最近はどうなのだろうか? 私は見かけたことがないけど。
この京都女子大と豊臣秀吉はどう関係するのかというと、京都女子大は西本願寺の経営なのである。西本願寺は秀吉が建てたことは以前に書いた。そういうわけで、一応の関係はあるのだ。
西本願寺は結構教育に力を入れていて、龍谷大学も西本願寺の経営だし、高校野球で有名な平安高校も西本願寺の経営。ということは、高校野球で平安が優勝すれば豊臣秀吉もあの世で喜ぶか?
写真は智積院の境内にある智積院玄有の像。
このお寺は元々豊臣秀吉が夭折した長子鶴松の菩提を弔うために建てた祥雲寺というお寺だった。それを徳川家康が和尚さんを追い出して、代わりに紀州の根来寺から智積院玄有という坊さんを連れてきて真言宗の新たな本山を開かせたのである。では何故そのようなことをしたのか。
ここの隣が妙法院。そして当時の妙法院門跡は後水尾天皇の弟だった。そして後水尾天皇というのは父親の後陽成天皇と同じく、アンチ徳川。当然その弟である妙法院門跡も豊臣のシンパではないかと疑われた。そしてそして家康が連れてきた智積院玄有のいた紀州根来寺というのは秀吉が甥の秀次と一緒に攻めて陥落させた寺である。
つまり家康は豊臣シンパの疑いがあるお寺のすぐ隣に豊臣家に対して恨みを持っている坊主を連れてきて住職にした。これによって両者を拮抗させたわけである。本願寺分割と似たような発想だな。やはり家康は政治家であった。
ところで、この件に関し家康が智積院を作ったのは「豊臣家が作った結界を破るためだ」という俗説がある。豊国神社ー妙法院ー本願寺というラインを潰したのだという。しかし、智積院以前にも祥雲寺というのがあったのだから、「智積院が出来たことによって結界が崩された」のなら、その前の祥雲寺のときから崩れていたことになる。「結界云々」は眉唾だろう。
それから、家康から追い出された祥雲寺の和尚さんだが、その後どういう経過があったのか妙心寺に入った。そして祥雲寺の名前をひっくり返した雲祥院という塔頭を作ったのである。この雲祥院は現在でもある。
お次は新日吉神社。「新日吉」は「いまひえ」と読む。後白河法皇が日吉神社を京都に勧進したので「新しい日吉神社」ということで名づけられた。だから「今」と言っても「今現在」の「今」ではなく、後白河法皇が生きていたときの「今」なので800年以上も前の「今」ということになる。
しかしこの神社の名前は読みにくさでは大関横綱級だろう。
この神社は当初、今熊野瓦坂にあったものを寛永年間に社殿が智積院の北側に移された。それが明治になってさらに今の場所に移し変えられている。
境内には狛犬ならぬ狛猿がいるが、これは秀吉ゆかりだからではなく、元々猿は日吉神社のお使いらしい。
ここが秀吉ゆかりの神社とされているのにも、秀吉が後白河法皇の領地を皇室から買い取った名残だろう。ただ、単なる名残ではなく、秀吉死後の江戸時代の間中、非常に重要な意味を持つようになった。それは一体何なのか?
新日吉神社の片隅にある樹下社(このもとのやしろ)。
この神社のすぐ横の道が豊国病への参道である。実は江戸時代、徳川幕府は新日吉神社の本殿をその参道に建てて一般の人が豊臣秀吉の墓参りをすることが出来なくしてしまった。幕府はこれで秀吉と民衆との関係を絶ったと思った、のであるが。。。
ところがドッコイで、何と当時の京都の人はここに樹下社を作った。「樹下」というのは「樹」と書いて「き」とも読めますね。ですから読み方を変えたら「木下」なのである。つまり「木下藤吉郎」のこと。
幕府が神社の社殿を移すことによって秀吉の墓に行けなくしてしまったので、京都の人はここに樹下社を創り、江戸時代を通して密かに秀吉を祀っていたのだった。
昔から京都の人たちは「お上のやることに反対はしない」けれど、事が成った後で「誰も従わない」というところがあったのか。「我々はそちらのやる事に反対はしないから、そちらも我々のやる事に目くじら立てるな」という調子なのかも。
明治になって豊国廟への参道が整備され直された後も、樹下社は新日吉神社の中で静かに祀られている。
豊国廟に行く途中にある灯籠。道の左右にひとつづつ、2基ある。で、この灯籠には寄進をした団体の名前が地名で書いてあるのだが、それが全部かつて大阪の遊郭のあった所ばかり。これは如何に?
明治になってここの参道を整備する時、一般からの寄付を募ったのだが、中々集まらなかった。その時、「では我々が出しましょう」と言って手を上げたのが大坂の遊郭だったのだ。最初は遊郭から金を貰うというのに反対した人もいるそうだが、提示された金額がハンパではなかったのか、最終的にはありがたく戴いたわけである。
豊臣秀吉のお墓に行く道は遊女が稼いだお金で出来た。女好きだった秀吉さんも、あの世でニンマリしてはるかもしれない。
先ほど紹介した灯籠の台の部分の拡大写真を見てみよう。ちゃんと書いてありますね。
やっぱり遊郭って儲かっていたのかな。
灯籠のある道をまっすぐ登って行けば豊臣秀吉の墓へ行く石段である。私の撮り方が悪かったので下りの様に見えるかもしれないが上りである。500段ほどある。かつて豊臣秀吉のコースを週に一回催行していて、8年ほど続けたが、その間にツアー終了後「登ってみます」と言って上っていった人が5人おられたが、5人とも女性であった。
昔はこの上から京都の街が一望できたのだが、今は木が伸びてマスクされてしまった。
以前に聞いた話。あるツアーでガイドが「一望できます」と言って皆で上った。でも何も見えなくなっていた。そしてガイドもビックリしていたと。
これはガイドが悪い。やはり事前に自分で確かめておかなければ。何かの本に「一望できる」と書いてあるのを読んだだけだったのだろう。
上の石塔の写真も載せればよいのは分かっているのだが、500段を登るのがしんどいのでやめた。半分以上登ると一旦平地になる。そこからもう一度石段を登って行けばお墓に到着である。興味と馬力のある方は登ってみてください。
秀吉の墓はここだが、奥さんの北政所の墓は高台寺にある。夫婦なのに離れていて気の毒、という人もおられるが、あの世の秀吉さんはそうは思っていないだろう。何故か? 答は来週に続く。
【言っておきたい古都がある・67】
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その2・大仏受難〜 http://kyoto-brand.com/read_column.php?cid=5482
その3・大仏また受難〜 http://kyoto-brand.com/read_column.php?cid=5483
その4・大仏さらに受難〜 http://kyoto-brand.com/read_column.php?cid=5484
その5・大仏最後の受難〜 http://kyoto-brand.com/read_column.php?cid=5485