五郎兵衛さんの京都(その8)
~やはり落語のルーツはここにあった~
落語家の元祖と言われる露の五郎兵衛さんの残した『軽口露がはなし』に基づいて江戸時代中期の京都の様子を見てみようというシリーズだが、前回ご紹介したエピソード「神様も洒落を言う」でひとつ気になる部分がある。
大金が欲しいという職人の願いを断った御霊神社の神様が、「そんなに金がほしければ真如堂の稲荷に行け」と言っていること。伏見稲荷ではないのだ。
もっとも、当時の伏見は京都ではなかった。「東山三十六峰」が比叡山から稲荷山までの峰々を現すように、「京」というのは稲荷山までで、そこから南の伏見は別の地域であったと。だから京都町奉行所とは別に伏見奉行所があったのである。実際、伏見は昭和4年から6年まで、僅か2年間ではあるが「伏見市」だった。
しかし、だからといって神様が伏見稲荷ではなく真如堂の稲荷に行けと言うものだろうか?
まず、真如堂の稲荷だが、これは正門を入ってすぐ左にある鳥居の奥で荼枳尼天を祀っていた所。江戸時代は稲荷堂と言ったらしいが、今では塔頭の法伝寺である。
この荼枳尼天というのは狐に乗っているため、いつのころからか稲荷と混同されてしまったようである。
さて、この話の語り手である露の五郎兵衛さんは晩年に剃髪したことからも分かるように仏教に帰依するところ深かった。そこで(これは私の推測になるのだが)僧侶としては天台宗だったのではないだろうか。
それなら伏見稲荷をパスして同じ宗派の真如堂にある稲荷を推薦した訳が分かる。さらにもうひとつの理由も見えてくるのである。
その当時、伏見稲荷は東寺の管理下にあった。伏見稲荷の祈願所に神宮寺として建立された愛染寺が東寺の末寺であり、この寺が稲荷の社殿造営や修復、勧進、出開帳を仕切っていたのである。
そして東寺というのは真言宗。天台宗のライバルである。
だから五郎兵衛さんの話しに出てきた神様は伏見稲荷ではなく、真如堂の鎮守社を薦めたのではないか。
これが私の「露の五郎兵衛天台僧説」なのだが、残念ながら断定するだけの証拠はない。
ということで、本来の趣旨である『軽口露がはなし』のエピソードに戻ろう。
今回は五郎兵衛さんが落語家の元祖と言うのにちなみ、現代でも演じられる落語の原型とも言えるお話。巻三第二より。
ある町人が儒者のところへ挨拶に立ち寄った。すると儒者がお茶を出してくれて、あてに塩打豆(しおうちまめ)を添えてくれた。ところがこの儒者、小者に塩打豆を持ってこさせるときに気取って
「エンチョウズを持って来い」
とわざわざ音読みで命じたのである。
町人がそれは何かと尋ねると、
「エンは塩、チョウは打、ズは豆」
と講釈した。そして小者に「もっと持って来い」と言ったら、「もうありません」と答えたので、またしても気取った儒者は
「フギュウリキ」
と言った。
で、これまた町人が「それはどういう意味ですか」と尋ねると儒者は
「不及力」(ちからおよばず)
という事だと教えてくれた。
これは良い事を教えてもらったと喜んだこの町人、家へ帰ると早速奥さんに塩打豆を作らせて、誰か尋ねてこないかと待ち構えていたわけである。
そこに奥さんのお父さんがやって来た。町人はよしとばかりに
「エンチョウズを出せ」
と言って奥さんに持ってこさせたのだが、お父さんは何も気にせず塩打豆を美味しそうにひたすら食べている。ここで次の段階だと、奥さんに「もっと出せ」と言うと、奥さんは「はい」と豆を出しかけたのだが、咄嗟に思い出し、慌てて引っ込めながら「もうありません」と答えた。
一方、町人のほうは「不及力」という言葉を忘れてしまい、奥さんに向かい
「この、ふぐりなし」
と言ってしまった。
すると奥さんは
「女にふぐりがあるわけない」
と言ったと。
「ふぐり」というのは言わずと知れた「睾丸」のことである。
江戸時代、意気地なしの男を罵るとき、
「この、ふぐりなし!」
と言った。「不及力」(フギュウリキ)という言葉を忘れてしまい、咄嗟に浮かんだ似たような言葉が「ふぐりなし」だったというわけ。それで奥さんから「あるわけない」と突っ込まれてしまったのだ。
これは落語「青菜」に通じる話である。ただし落語のほうはもっと複雑に洗練されている。
ところで、この「ふぐりなし」という表現は昭和の時代にはまだ受け継がれていた。意気地なしや優柔不断な男を罵るのに
「お前、キンタマ付いとんのか!」
というのがあったから。まあ、「ふぐり」という雅(?)な言い方はなくなり、かなり即物的な言い方になってはいるけど。今でも言うのだろうか。
何にしても、下半身に纏わる話は庶民の特権なのかもしれない。
(来週に続く)
【言っておきたい古都がある・156】