五郎兵衛さんの京都(その5)
~昔も今も変わらぬものあり~
「落語家の元祖」露の五郎兵衛さんの咄しを集めた『軽口露がはなし』をネタ本に、そこに描かれた元禄時代の京都の様子を見てきているわけだが、こういう古典を読んでみると、今も昔と代わらないものがあるかと思えば、少し違って「え、そうだったの」と思うものもある。
巻二第四から。
三条のあたりに気の変わりやすい男が住んでいた。蛸薬師に願をかけて「一生蛸は食わない」と誓ったのだが、祇園祭のときに鴨川の床の上で友達と一杯やっていると、肴に蛸の塩もみが出てきた。
で、この男、その蛸を食いまくったと。
友達が「食ってもいいのか」と言えば、
「昨日、麩屋町の布袋薬師に願を掛けかえて、これからは一生布袋を食わないことにした」
と答えたと。
まあ、これだけの話なのだが、これだけでも新京極にある蛸薬師は江戸時代からあったというのが分かる。まあ、アーケードは無かったが。
鴨川の夏の風物誌、納涼床もちゃんとあった。
これについては以前にも書いたが(この連載の13回目「後祭は賑わいと活気に満ちていた」参照)鴨川のあの床は、江戸時代には祇園祭の前祭と後祭の間に行われていたイベントだった。そして、この小咄からも庶民が気楽に足を運んでいたのが分かる。
茶屋の肴が蛸の塩もみというのも、仮設の店だからあまり凝ったものは出せなかったのだな。茹蛸に塩をまぶしたもので酒を飲んでいる。
「麩屋町の布袋薬師」というのは麩屋町通り二条上ルの大福寺にある薬師如来のことだ。今でもある! 京都十二薬師のひとつである。
しかし、蛸薬師に願を掛けて「蛸は食わない」というのは良いとしても、布袋薬師に願を掛けなおしたから今度は布袋を食わないというのは。。。布袋さんが食えるか?
まことに人を食った男である。
さて巻二第十三の話も面白い。
若者たちが集まって話をしているとひとりが言った。
「最近はどの商売も安売りに走って大きな儲けになっていない。大きな金はどこかで遊んでいて使われていない。その金を資金に使わせてくれれば利益を上げてやるのに」
するともうひとりが応じた。
「大きな金ならあるが、お前の力では使うのは無理だ」
それを聞くと、始めの男が喜んで
「その金はどこにあるのか。誰が持っているのか。使わせてくれたら運用してすぐに大金持ちになるぞ」
と言うと相手が答えて曰く、
「三十三間堂と大仏の間に大きな鐘が使われずに遊んでいるよ」
この小咄の面白さは現代人ではもう分かり難くなっているが、情報としては面白いものがある。
まず、五郎兵衛さんがこの話をしていた頃はデフレだったようだな。安売り安売りで誰も儲からず、民間には「箪笥預金」でお金が眠っていると。今とあまり変わらない。
才気走った奴が「くそっ、金さえあれば」と、少し鬱屈しているのも現代的である。
で、ここからが昔と今ではちょっと違う話になるのだ。
「三十三間堂と大仏の間に大きな鐘がある」
と言っているが、ありますか、そんなもの?
まず、この「大仏」というのは方広寺の大仏のこと。もちろん、現存しない。
この大仏のこともこの連載で「京都の大仏物語」として5回に亘ってその数奇な運命をご紹介した。
江戸時代にこの大仏様がいたのは今の豊国神社の位置である。では、そこと三十三間堂の間というと、現在では京都国立博物館である。かつてこの辺りは豊臣秀吉が作った方広寺という巨大な寺の境内であった。
小咄に出てくる鐘は、今は豊国神社の北隣になる方広寺の鐘楼にある。この鐘が有名な「国家安康の鐘」だ。江戸時代の半ばには全然違う場所にあり、しかも鐘楼もなく地面に直置きにされていたようである。だから撞かれることもなく、遊んでいたと。
今も残るその鐘なのだが、撞かれるのは大晦日の除夜の鐘のときだけ。
実は、以前はお守りを買えばこの鐘を撞かせてくれたのである。最初は100円で、撞きたいというひとが沢山きたので200円になり300円になり、ついには500円になったのだが、それでも撞きたいという人が沢山来て、とうとう朝から晩まで鳴りっぱなし。それで近所の人から文句が出たと。
やれやれ、書かれていた文言に徳川家康がクレームをつけて戦争になり、地面に置かれて放置されるわ、ようやく鐘楼に入ったと思ったら、またもやクレームで活躍するのは大晦日だけ。
この鐘も中々の災難続きである。
さて、次回はこの連載の元ネタである五郎兵衛さんと、平成の二代目露の五郎兵衛さんを絡めた話をいたします。
(来週に続く)
【言っておきたい古都がある・153】