五郎兵衛さんの京都(完結編)
~今も昔も人は変わらず~
元禄時代の京都で活躍した落語家の元祖・露の五郎兵衛さんの噺を集めた『軽口露がはなし』をネタ本にしたシリーズもいよいよ最終回。
そこて少し変わった話を。
巻四第十五。
隠居しているお姑さんのところへ若奥さんから使いが来て、「友達が集まるので参加しませんか」と誘われた。「どんな集まりか」と尋ねたら、「悋気講(りんきこう・無礼講の一種)」だという。
それを聞いたお姑さん、「それなら二人前で参加する」と言ったとさ。
という話なのだが、私も含めて現代人には何のことかサッパリ分からない。
悋気講というのは女性だけが集まる無礼講で、旦那さんの悪口を言いまくったらしい。それでお姑さんは「旦那の悪口なら二人分言える」と答えたと。
これを現代風に書けば、
「お義母さん、今度みんなで集まるんですけど、一緒に来ませんか」
「この忙しいのに行ってられるかいな。そんで、一体何の集まりや」
「悋気講です」
「おお、それやったら行く行く。亭主の悪口やったら二人前言うたるわ」
となるだろう。
この話の眼目は、
江戸時代にも女子会があった!
ということである。
もちろんこれは経済的にゆとりのある家庭のことだろう。庶民の階級になれば「悋気講」などと言わなくても普通に長屋の井戸端でワイワイガヤガヤやっていたから。
で、この江戸時代の女子会なのだが、原文では
「悋気講を奥様の大将にて、誰々も御入りむすび有」
とあり、会を主催する女性は「大将」と言われている。
このあたり、男も女も関係なかったようだ。
70年前の敗戦直後は
「戦後、強くなったのは女と靴下だ」
と言われたが、何の何の、女は昔から結構強かったのである。確かに社会的な立場は弱かったかもしれないけれど、決して虐げられていたわけではないのだ。
次は巻五第五の話だが、お馴染み坊主ネタである。
ある僧庵の坊主は女房を妹と言い、息子を甥と言ってごまかしていた。しかし念仏を唱えるのが上手く、鐘も巧みに打ったので念仏講に雇われていた。
ところがこの坊主、さらに悪いことには博打が好きで、時々賭博場に行くばかりか、庵に人を集めて博打もやっていたという。
ある夜、庵で博打をやっていると念仏講の人たちがやって来た。居留守を使う女中の態度が不審なので問い詰めると博打をしている部屋を教えてくれた。
ギャンブルの現場を押さえられた坊主、講の人たちから
「賭けをするとは何事か!」
と詰られて答えたのが
「掛け(賭)ではない。現金払いだ」
これなど中々渋い答である。
江戸時代、数々の坊さんを揶揄する話が作られたのは、それだけお寺と民衆との結び付きが強かったからともいえる。
そしてかつては公家と武家と寺家の三つ巴の権力構造だったのに、今の歴史教育からは寺院の権力というのがスッポリ抜け落ちていて、公家と武家の二極構造であったかのような扱いを受けてしまっているわけだ。
僧侶を笑い飛ばす話というのは、仏教説話などで広められた寺家のプロパガンダに対するアンチテーゼだったのではないのか。
大多数のお坊さんは真面目だったから生臭坊主が非難された。大多数が生臭ならば、逆に真面目な坊さんが褒め称えられただろう。
五郎兵衛さんの噺を読んでいても「仏教界、これではアカンぞ」という苦情でもあり、また叱咤激励でもある思いが滲み出ている。
今も昔も女性は本音では強く、坊さんは生臭が目立ったということ。
時代は変わっても、人は変わらないのであります。
「五郎兵衛さんの京都」(完)
【言っておきたい古都がある・160】