五郎兵衛さんの京都(その1)
~落語の元祖から時代を見てみよう~
今回から新シリーズです、ってまたまた延々と続くのかと辟易なさる方もおられましょうが、お付き合いいただければ幸いです。
今度は抹香臭い話は一切無しで、落語の元祖とも言われている露の五郎兵衛を取り上げて、五郎兵衛さんが活躍した当時の京都がどんな所だったかを検分する次第。ネタ本は岩波書店が出した日本古典文学大系の『笑話集』に収録されている『軽口露がはなし』である。
この五郎兵衛さん、どんなに凄い人かと言うと、今でも上方落語に露の一門がちゃんとあり、みなさん活躍されている。「子孫」を残したのだ。
ただ、露の五郎兵衛の名前は長らく消えていて、私が子供の頃にテレビや新京極の京都花月で見たことがあるのは露の五郎師匠であった。「兵衛」は付いていなかった。もっとも、晩年になって五郎兵衛を襲名されたが、私にとっては今でも「露の五郎」師匠である。何と言っても艶笑譚が上手かった。その当時で言う「エッチな話」が面白かったのである。
ということで、その初代五郎兵衛さんの話を纏めた『軽口露がはなし』のエピソードを紹介しながら江戸時代の京都を垣間見て、ついでに所々で私が見た現代の露の五郎兵衛の思い出話も少し混ぜていく。
(この露の五郎兵衛さんの落語はネットの「露の五郎兵衛・落語動画」というので聞くことが出来ます)
さて江戸時代の露の五郎兵衛さん、どうも出自は不明のようである。元禄16年(1703)の秋に61歳で亡くなったとか、晩年は剃髪して露休と名乗っていたとしか分かっていない。それでも大変な人気者だったらしく、あちこちの書物にその名前が出てくるのである。
五郎兵衛さんの芸は「辻咄」なので、ちゃんとした小屋の中やお座敷で演じるのではなく、大道芸の一種になる。お客さん1人につき12文の料金で「落語」を聞かせていた。この料金、今のお金に直すと私の計算では250~300円になる。
かなりの人気者であったのは当時の四条河原の賑わいを記した書(「産毛」)に
「林清が歌念仏、肩を裾とむすびたる能芝居、太平記よみ、謡の講釈、露の五郎兵衛が夜談義、大的小的楊弓の射場」
とあることからも窺える。つまりここに書かれている所は特に人が集まっていたということだ。
また享保13年(1728)の『黴雨の梅』には人を集めて落語をしている図に
「人草や来た野は露の五郎兵衛」
という句がつけられており、亡くなって四半世紀もたってもまだ名前が残っていたことが分かる。「来た野」は「北野」と掛けてあり、五郎兵衛さんといえば北野天満宮で落語をしていたというのがもう定着していたのだな。
そこで、その五郎兵衛さん、どんな話しをしていたのだろうか。
『軽口露がはなし』を読むと、小咄ばかりである。
巻之一第二では、
京の男が丹波の山奥に婿入することになり、お土産に生鯛を「1枚」用意し、道中のおやつに七条大宮で「ふのやき」を買って舅の家に着いた。
ところが田舎の人たちはこの婿が持ってきたものが何か分からず、お寺の和尚さんと庄屋さんを呼んで来て「これは何か」と尋ねたら。。。
和尚さんは「ふのやき」を「天狗がお灸をすえた後のかさぶた」と言うし、庄屋さんは鯛を「祇園の小宮にもある、恵比須の太刀じゃ」と答えた。
とまあ、これだけの話しなのだが、ここからも色々なことが分かる。
まず、元禄時代の頃の京都では鯛を「1枚、2枚」と数えていた。「1匹、2匹」ではなかったのだ。私は鯛を丸ごと買うなんてことはないが、今でも「1枚、2枚」と言うのだろうか? 鰹を「1本丸ごと」というのは聞いたことがあるのだが。
次に七条大宮では「ふのやき」というお菓子を売っていた。今でも売っているのではないのかな。ここは京都と丹波路を結ぶ要路であった。つまり京都から丹波へ行くだけではなく、丹波から京都に来た人たちもここを通ったということ。否、ここを通るだけではなく、七条大宮には丹波の国の物産を売る店も軒を連ねていた。丹波の人にとっても重要な所だったのだな。
最後に、庄屋さんは恵比須さんを引き合いに出すのに建仁寺の反対側にある有名な恵比須神社ではなく、祇園社(八坂神社)の末社である恵比須神社のことを言っている。
その当時、丹波では恵比須神社よりも八坂神社のほうが有名だったのかな。
少なくとも、身近な神社としてまず八坂神社が浮かんだのだろう。八坂さん、有名だったのだな。
しかし江戸時代、八坂神社の前には下河原遊郭というのがあった。
この庄屋さん、用事で京都に来るたびにこの遊郭に入ってたのではなかろうか。だから「恵比須」というと大きい恵比須神社ではなく、八坂神社の中の小さい恵比寿さんが頭の中にあったと。
こう考えると、ますます想像力が逞しくなってしまう。
(来週に続く)
【言っておきたい古都がある・149】