伏見の寺田屋(完結編)
嗚呼、身も蓋もない現実
先週に引き続き、寺田屋事件へのツッコミ。
大佛次郎の『天皇の世紀』では、山口金之助が柴山愛次郎の後ろから声掛けをして斬ったとあるが、これはおかしい。対面して話し合いをしていて、決裂して斬り合いになったのに、わざわざ相手の後ろに回って声を掛けるか? 面と向かったまま、いきなり斬ったはずである。
田中謙助が抜き打ちで斬られて、すぐに乱闘になったからという解釈も出来るが、山口のすぐ前に座っていたのは橋口伝蔵である。橋口の右手側に柴山が座っていた。だから田中が討たれてすぐに皆が立ち上がって斬り合いになったとすれば、山口は自分の正面にいた橋口とそのまま対峙することになる。その橋口を避けて後ろに廻りこみ、柴山に声を掛けて後ろから斬るなんて有り得るか?
やはり柴山は座ったまま山口にいきなり斬られたのだろう。
さて、この斬り合いだが、基本的に奈良原ら討ち手側は多数で1人だけを相手にしている。道島と有馬が1対1になったのは偶然というか、はずみであろう。斬られた過激派はみんな1人で8人を相手にしたというか、まさか斬り合いになっているとも知らずに降りていって、寄ってたかって斬られてしまったと。
あんまりと言えばあんまりなのだが、これが現実というものかもしれない。
斬るほうも興奮してしまって、誰かが出てきたら襲い掛かるしかなかった。いくら8人いるといっても、二階には30人以上がいるわけだから、全部を一度に相手にしたら勝てるわけがない。奈良原たちも怖かったはずだ。
何も知らずに降りて来た吉之丞や森山たちは、すぐに階段を駆け上がって二階の連中に急を告げる事も出来たはずなのだが、それも出来ずに斬られてしまったのは凄惨な修羅場にビックリしてすぐには体が動かなかったのと、奈良原たちがすぐに襲い掛かってきたからだろう。この辺は1対8なので安心して襲い掛かる。
たまたま降りて来たら斬られてしまったのだから騙し討ちみたいなものだがこれが現実で、テレビの時代劇のようなチャンバラは実際にはない。
ところで、二階に集まっていた男たちは誰も下の騒ぎに気づかなかった。
こんなことは有り得るのか?
有り得ると思う。
まず、集まった者たちの活気で二階はかなりうるさかったに違いない。しかも階段の降り口は彼らが集まっていた表通りに面した部屋からは離れた位置にあった。下では大きな音がしていたはずだが、室内の喧騒に紛れて分らなかったのである。
さらに、私は二階に集っていた者たちの大部分は酒を飲んでいたと思う。決起前の景気付けや、あるいは恐怖や不安を紛らすためにこういう場ではお酒は不可欠だから。それで騒いでいるので「想定外」の斬り合いなんて気づかなくて当たり前かも。
しかし、外に逃げて出た寺田屋の人たちの悲鳴でようやく異変に気が付いた。そこで前々回の「再現ドラマ」で記したように下へ降りていくわけである。
ところで、階下で起きていた惨劇の最中、二階に集まっていた者は気づかずに景気付けの酒を飲んでいたわけだが、こんなお金がどこから出てきたのか?
寺田屋は薩摩藩御用達である。集合していた過激派たちは何の疑問もなくその支払いを薩摩藩に付け回していたのではないか。そうだとすれば、考えようによっては「過激」なわりには藩に甘えている。
まあ、これだから奈良原喜八郎の説得に従って投降したのだろうが。
その奈良原の「説得」だが、これも最後は「懇願」に近かったのではないかと思う。
大小の刀を放り出して諸肌脱いで、ということは上半身裸になって武器は持っていない事を示し、両手を合わせて拝むようにして「上意じゃ、上意じゃ。頼む、頼む」と1人で二階へ上っていった。
最後は責任者として単身30人近くもいる過激派の中に入って行ったのだから、やはり優秀な人なのだな。そしてみんな奈良原に従って矛を収めた。
下の異変に気づいたとき、階段を降りてきた者たちは血だらけで死体が転がっている現場を見て度肝を抜かれた状態になったのだろう。恐らく固まってしまった。狭い階段の途中で止まったから後ろの連中も前進できずに止ってしまった。何も分らずに止った後ろの者たちは、最初に階段を降りた者たちが戻ってくるので、また何も分らないまま後退した。そこに奈良原が上ってきたわけである。
「説得」にあたって奈良原は土下座ぐらいしたかもしれない。「とにかくやめてくれ」と。
まあ、説得に来たのが8人だけではなく、もっといるかのようなハッタリは使ったかもしれないが。
結局、奈良原に説き伏せられて翻意した過激派が、当初は不満もあったろうが下の惨状を見て戦意を喪失したというのはリアルだと思う。多分、いっぺんで酔いも醒めただろう。
ところで、前に書いたように寺田屋には事件当日の様子を示す資料が残っている。双方がどういう形で座って談判していたかとか。
これは事件の後、寺田屋も伏見奉行所から事情聴取を受けているからである。それに際して奉行所から事件現場の詳細を記す図面の提出を求められた。そして当時の常識として奉行所に渡したものと同じ書面をもう一通作っておいて自分たち用に保管しておいた。ひょっとしたら薩摩藩からも事情聴取があったかもしれない。
さて、寺田屋は幕末に焼失している。それでどうして資料が残ったのか。
江戸時代の商家は火事になると大福帖をまとめて井戸に放り込んだ。和紙に墨で書いた文書はこれで守れる。和紙は水を吸ってもそんなに痛まないし、墨の文字は流れたりもしない。おそらく資料も一緒に井戸に投入されて助かったのではないか。
これが一番ありうるのではないかと思う。
その寺田屋も当時のものとはすっかり変わってしまっているわけだが、建物の前に出ている提灯も別のものになっている。
今は龍のデザインだが、昔は抱茗荷だった。
こうなると往時を忍ぶ物はほとんどないではないか、ということになるのだが、まあ、それが現実というものでありましょう。
「伏見の寺田屋」(完)
【言っておきたい古都がある・272】