伏見の寺田屋(その2)
~三十石舟が賑わいを示し寺田屋事件が時代を示す~
さて、今では寺田屋だけだが、江戸時代のこの界隈は40件以上の船宿や旅籠が並び、大坂に向かう三十石舟の発着場として賑わっていたのはご承知の通り。
伏見と大坂の距離は昔風に言えば十里十三丁。40キロほどである。ここに昼夜2回、三十石舟の定期便が運行されていた。
所要時間は伏見から大坂に向かう下り舟は半日または半夜。大坂から伏見に向かう上り舟は1日または1夜。
大坂から伏見に来るには川の流れを逆行するため、船に引き綱を結んで船頭が陸から引っ張ったため、倍の時間がかかったのだった。
乗客の定員は31人。船頭は4人。つまり船そのものは35人乗りということになる。
気になるお値段だが、下りが72文、上りが145文。やっぱり上りは重労働なので船賃も高い。かかる時間と同じで約2倍である。
今のお金に直すと(私の試算では)下りが1440円。上りが2900円になる。妥当なような気がするな。ただし、子供は半額だったかどうかは分からない。
冬は寒いので夜具を24文(480円)で貸してくれたらしい。
ちなみに有名な保津川下りは約90分で4100円。
最盛期には100艘以上の三十石舟があったというから、定期便の出発時間になれば川は船で一杯だったと思われる。
現在と違って、三十石舟にはトイレがないので中々不都合もあった。そのあたりの人間模様は落語の「三十石」を聞いていただければ良いかと思う。桂米朝あたりが一番オーソドックスで万人向けではないかな。
何はともあれ江戸時代の伏見は栄えていたのだが、それはなぜかというと幕府が参勤交代をする西国大名に「必ず伏見を通るように」と命じていたから。
別に徳川幕府が伏見を優遇してくれていたわけではない。大名が京都に接近しないようにとの配慮なのである。
今の伏見は京都の一部だが、江戸時代は違った。伏見は京都ではなかったのである。だから京都町奉行所とは別に伏見奉行所があったのだ。で、大名が京都に接近しないようにするというのは、朝廷に近付かないようにする配慮であった。迂闊に近づけて、天皇陛下を錦の御旗にして幕府に対抗するのを防ぐためだったということ。
幕末、まさにその西国大名の藩から明治維新を起こす人材が出たのだから、この幕府の配慮は正しかったといえよう。でも、幕府自体の力が脆弱になるとせっかくの配慮も有名無実になってしまったのだな。
そして寺田屋は幕末になると薩摩藩の定宿になっていた。いわゆる「薩摩藩御用達」である。これで経営的にはわりと楽だったのではないか。
しかし薩摩藩のおかげで儲かっていたことが、あの「寺田屋事件」の舞台になる事に繋がってしまった。寺田屋で薩摩の藩士同士が斬り合いをやらかした有名な事件である。
さて、前回に書いたように、江戸時代と現在では寺田屋は完全に違うものになっているとなると、江戸時代はどんなものだったかが気になる。
幸いにも寺田屋にその寺田屋事件の記録が残っており、それに事件当時の見取り図が添付されている。これまた幸いにも林美一の『時代風俗考証事典』にその図が掲載されているので、それに基づいて話を進めよう。
今の寺田屋は正面の向かって右側に入り口があり、右隣の庭に面した側面にも出入り口がある。
ところが江戸時代は入り口が正面の左右に、つまり表側に2ヶ所あった。両方とも格子戸だったようだが、このままでは狭いので船の発着時間で混雑する時は格子戸を外して開放していた由。これなら多くの人をさばきやすい。
中に入ると先ず土間があり、それから左4分の3ほどは板の間の上り口になっていた。右端は暖簾をくぐれば台所のある通路で、そのまま裏口へと繋がっていた。台所には内井戸があり、天井には明り取りの天窓があった。
上り口から少し奥に行くと左端に階段があり、その横は奥に通じる廊下、この廊下を隔てて畳敷きの一画があり、帳場だったようである。階段の奥は使用人の部屋と厠、廊下の突き当りが主人の部屋だった。
寺田屋事件の薩摩藩士たちは、まさか板の間に座ったとも思えないので、畳敷きであった帳場で対面したのだろう。
で、いよいよその寺田屋事件でである。
参考書などに書かれているのは下記のとおり。
文久2年(1862)島津久光の上洛に際してこれを好機と見た有馬新七ら過激派がクーデターを計画。これを防ごうとした久光は説得の藩士を派遣したが寺田屋での交渉は実らず、斬り合いになって双方に死者が出た。
まあこれだけの話なのだが、これではあまりにも素っ気無いので来週はこの事件の「再現ドラマ」をお届けしよう。
乞、ご期待。
【言っておきたい古都がある・269】