お酒の話
~江戸で売られていたお酒の8割が灘であった理由~
酒処伏見でもそろそろ新酒の仕込が始まるが、その季節にちなんでお酒の話題を。以前にフェイスブックでも書いたが、伏見のお酒の振興のため、また私自身のおさらいのために、再論する。
今は昔、「帰って来たヨッパライ」という流行歌があり、「天国良いとこ一度はおいで、酒は美味いしネエチャンは奇麗だ」と唄われたように、天国にも酒があるのかと思うと、どんなものか飲んでみたくなる。まあ、いずれ向こうに行けば飲める訳だから、慌てて確かめに行くこともない。しかし、天女を侍らせて酒を飲むというのは贅沢なものでありましょう。
(ん? 地獄に行けばどうなるか? ま、気にしない、気にしない)
江戸時代でも有名な酒といえば伏見と灘だったが、「甘口・辛口」という言い方はなかったようである。伏見型を「女酒」、灘型を「男酒」とは言ったらしい。
で、この「辛口」なのだが、実はそんなものはない。
どういうことか?
要するに、お米を麹を使って発酵させるのだから化学反応で糖分が出来るのは当たり前。つまり日本酒というものは甘いものなのである。「辛口」というのは「そんなに甘くない」ということ。本当の、自然に近い日本酒は甘いものであると。
つまり伏見の酒のほうが正統派の日本酒であるということなのだ。
ところが徳川時代、江戸で流通していたお酒の8割は灘であった。
さらに、井原西鶴の『好色一代女』には、島原遊郭に地方のお大尽がお酒の樽を持参でやって来る場面がある。京都で出される酒ではなく自分用に灘の酒を持ってきたのだな。
こうなると伏見の酒はまずかったのか、と思ってしまうが、そうではない。
江戸の料理屋や居酒屋で灘の酒が売られていたのは、お客さんにたくさん飲んでもらわないことには儲からないからなのである。
伏見の酒ではコクがありすぎて少しの量で満足してしまう。これではイカンのです。それでドンドン飲んでもらうためにはサラリとした灘の酒でなければならなかった。お茶のような感覚でグイグイ飲んでもらって売り上げに貢献してもらわなければ店が困る。
そう。お客さんにドンドン飲んでもらってガンガン売りまくらねばならないお酒が、料理と共に少々嗜むぐらいで満足できる高級品では具合が悪い。少しの量でも堪能できるコクのある酒では沢山売れない。
利益を上げるためには質より量で売りまくらねばならないのである。
このように、灘の酒が持て囃されたのは純粋に営業政策上の問題で、灘の酒が伏見の酒に勝っていたわけではない。
それと、余談だが、徳川時代の酒処はお酒を低温殺菌した上で江戸に出荷していた。
低温殺菌といえばフランスの細菌学者ルイ・パスツールが発明したといわれているが、実はそれよりも前に、日本の杜氏が実用化していたのだ。メイド・イン・ジャパンの技術だったのですね。もっとも、バスツールが低温殺菌の技術に取り組んだのもワイン業者からワインの品質を保つ方法を相談されたからであるが。
「酒は百薬の長」と言うが、「酒は新技術の元」でもあった。
低温殺菌だけではない。
江戸時代後期、日本は独自の技術で原油から灯油を精製するのに成功したが、これは焼酎を蒸留する技術を応用したものであった。日本に焼酎があったればこそ、南蛮人の力を借りなくても灯油が作れたのである。
結論。お酒は偉い。
【言っておきたい古都がある・255】