宴の松原とは何だったのか
~平安貴族の庭も広域避難場所だった~
平安時代、内裏の西に宴の松原と呼ばれた大きな空き地があった。饗宴のための広場とも,内裏を建て替えるときのための余地とも考えられているのだが、ともにその事実がなく明らかではない。要するに何に使っていたのが分からない。まあ、たまに怪異が起きていたようだけど。
千本出水の交差点を少し七本松通りに向かって歩いて行くと、石材店の隣に宴の松原と刻まれた石碑がある。
さて、この宴の松原の使用目的は何だったのか。
私の答は
平安時代から貴族の屋敷内にある広い庭は、今でいう「広域避難場所」になっていた。台風や地震があると、貴族は屋敷の門を開放して被災者を受け入れ、炊き出しをする。これは「施し」ではなく「義務」だった。
御所の殷富門から入れば左右に右近衛府、右兵衛府があり、すぐ前に武徳殿がある。右近衛府・右兵衛府は今で言う皇宮警察か。その武徳殿の向こう側(東側)が宴の松原と馬場だった。門から近い。
門と「避難場所」との間に武徳殿があって道を塞ぐ形になっていたのは、被災者がいきなり雪崩れ込んできたのでは事故の元になるので、「受付」を作って人の整理をしていたのではないか。
無駄なスペースに見えるものでも決して無駄に作ってあるのではない。ちゃんと利用目的があるわけだが、実は利用されないままのほうが良い。災害が起きていないということだから。無駄のままのほうが良い、つまり無駄ではないという事態が来ないほうが幸せなのである。
ところで、似たような「空き地」は西洋にもある。
たとえばハイドパークとかセントラルパーク。
他にも西洋諸国では街中に広大な公園があるのが珍しくない。かつてはこのような施設を褒め上げて「欧米では街中にこのような憩いの場がある。それに引き換え日本では……」というのが定番だった。
しかし一体、何のためにそんな「空き地」を作ったのか。
これは単純明快で、有事の際に軍隊を集結させるためである。
日本でも駐車場を「パーク」と言う。「囲われた土地」(パーク)に何かを集結させる。イギリスでは今でも「パーク」には「軍需品置場」の意味があるのだ。すると「テーマパーク」というのは戦争物をやれば本来の意味に近くなるのかな。
ハイドパークなどもイギリスの気候だと朝など薄暗いそうである。だからスパイ物の舞台になったりする。
ジョン・バカンの『39階段』など、公園の中で乳母車の若い奥さんが「落として」いたガラガラ(だったかな?)を拾ってあげたために大変な事に巻き込まれてしまう話だった。
日本では怪異だが西洋では陰謀。まあ、どちらにしても巻き込まれたくはないものであるが。
しかしそれなら、「宴の松原も広域避難場所ではなく、兵隊を集めるための場所だったのではないのか」という疑問が出てくる。
果たしてどうか?
初めに書いたように、御所の殷富門から入れば左右に右近衛府、右兵衛府があり、そのすぐ前が武徳殿。その武徳殿の向こう側(東側)が宴の松原と馬場だった。
つまり門と宴の松原の間には武徳殿という「障害物」があった。
もし宴の松原が軍隊を集結させるための場所だったとしたら門と広場の間を障害物で塞ぐなんてことをするか。
何もないほうが軍隊の出入りがし易いですよ。
隊列を組んで一気に出て行くからこそ軍隊なのに、「いざ出陣」というときに武徳殿を迂回しながら出て行きますか。
宴の松原は軍事とは関係が無い。
同じ「広大な空き地」を作っても、西洋と日本では根本的な考え方が違っていたと私は思っている。
【言っておきたい古都がある・403】
2012年6月5日に第一回「あきれカエル? ひっくりカエル?」から数えて、8年。
本コラムは、連載400回目越えとなりました。ご購読感謝いたします。