江戸後期の殿様警護について
~磯田道史氏の「殿様警護マニュアル」を読んで~
読売新聞に毎月一回掲載される磯田道史氏の「古今おちこち」が好きで毎回必ず読むのだが、今回(11月18日付)の「殿様警護にマニュアル」に関してはちょっと首をひねった。
磯田氏はまず新発見の史料「御供方心得」に基づき、「たとえ向こうより仕掛けてきても、成る丈、うけはずし穏便に扱え」との記述から、警護の基本は紛争を避けるものであったとし、反撃してもよいのは相手のほうから不法な暴力を受けた時だけであったと記す。そして、反撃する場合も藩主の抜刀命令が出てからであったと。
私もこれには何の異論もない。ああ、やはりそうだったか、と思うのである。
そして磯田氏は「江戸後期になると、大名行列は滅多なことでは刀を抜かなくなっていた」ことを説明して、「お供の武士たちは(中略)刀のグリップに『柄袋』をかぶせるようになった」と続ける。この「柄袋」というのは武士が旅をするときなど刀の柄が汚れないように被せた袋だが、磯田氏は「すぐ刀を抜いて斬り合いが始まるのを防ぐ目的もあったかもしれない」とする。
私もこれはその通りだろうなと思う。
では何がおかしいのかというと、その後の結論部分なのである。
磯田氏は桜田門外の変のとき、
「お供の武士たちは、この柄袋のせいで刀を抜くのが遅れた」
とし、さらに駕籠の中の井伊直弼は銃弾を受けていたから
「抜刀の指示が出せなかった」
私はこれはないと思う。
まず、柄袋の件は磯田氏の他にも書いてる人がいるのだが、殿様の警護といっても、平時に街中に出る殿様に付いて行くのと、大老という幕府の要職にある人の身辺警護では重要度が違う。ましてや井伊直弼は命を狙われてもおかしくない立場にいたわけである。そんな人の護衛をするのに刀の柄に袋をかぶせ、その緒をしっかりと締めて抜き難い状態のままにしておくか?
暗殺の当日は雪が降っていたようだから柄に袋を被せてはいただろうけれど、緒は締めずにすぐ外せるようにしていたはずである。
そして直弼が被弾して声を出せなかったから「お供は切り伏せられ」たというのだが、これもないと思う。相手は殺すつもりで襲い掛かってきているのである。こんなの斬捨て御免で反撃するのが当たり前。殿様の抜刀命令がないからといってボケーッとして斬られる奴はいない。暗殺犯は1人ではないのである。18人で仕掛けてきている。これならもう
(1)反撃するしか自分の身を守る術がなかった。
(2)自分のほうに落ち度はなく、非は相手側にある。
(3)相手を倒すのに卑怯なことはしていない。
という「斬捨て御免」の要件を満たすではないか。
警護の武士だって殿様より自分の命のほうが大事だろう。だから反撃するのが当然。
しかし、現実に咄嗟には反撃していないのである。
何故か?
単純明快。
みんな逃げたのだ。
直弼警護の武士は60人ほどいたらしいが、暗殺犯たちが襲撃の合図の鉄砲を撃った時、その銃声に驚いた警護の侍たちのほとんどは殿様をほっといて逃げてしまったのである。
切り伏せられた警護の武士の中には鉄砲の音で逃げた同僚をキョロキョロと見まわしながら
「え? 何? 何? どうしたん?」
と、その事態が分からずそのまま留まっていたところに暗殺犯がやって来て、何も分からんままに刀を振り回して斬られてしまった人もいるのではないのか。
もちろん、彦根藩の武士でもちゃんと反撃した人もいるけれど、ごく少数のようだ。
警固60人に暗殺犯18人である。もっとも、その60人の中にはただ槍を持つだけの人とかもいて、60人全員がいわゆる「警護の武士」ではなかっただろうとは思う。
井伊家の中間の証言によると、その中間は彦根藩の大名行列60名の後方で馬を引いていたが、
「殿様の駕籠へ何者かが刀を抜き数人斬りかかって、その勢いの烈しく怖ろしい事は言い様もない。駕籠の内か外かは分からないが大きな音がして、警護の者は八方へさっと逃げ去って、抜き合う者もいないように見えた」
という。つまり絶対に逃げたやつのほうが多い。
教科書や参考書の中にはこの辺りの事情を、暗殺犯は
「鉄砲の音とともに警護の侍たちが退いたところを襲った」
と書いているのもあるが、「退いた」とはよく言ったものである。逃げたのだ。まあ、嘘は書いてないけど。
もちろん、警護の武士でも間違いなく戦って死んだ人が4人いる。藩邸に帰ってから死んだ人たちも、まあ戦ったのだろう。
しかし大部分は逃げた。そして軽傷や無傷の人たちはその後、切腹や斬首になっている。お気の毒だが、やはり身辺警護の者が逃げてはマズい。
だから、「柄袋を被せていたのですぐには刀を抜けなかった」というのは、役人の言い訳なのだ。こんな話を真に受けてどうする?
要するに、幕末になると、武士といってもこれほどまで軟弱なものになっていたのである。
【言っておきたい古都がある・414】