仏の迷い道(その6)
~人間には上半身の人格と下半身の人格がある~
江戸時代に出版された『きのふはけふの物語』に描かれたお坊さんの行状を笑いながら、その当時の世相も眺めてみようと進めて来たシリーズだが、今回は今までよりさらに一歩踏み込んで、より露骨になります。^^
「上(拾遺)の7」のエピソードである。
尼さんが三人連れで歩いていると道端で馬が一物(陰茎=チンチンですね)を勃起させていた。
尼さんたちは見て見ぬ振りをして通り過ぎたのだが、見た物のあまりの凄さにとうとう我慢が出来ず1人が
「今のは見事でしたが、何と言うものでしょうか。みんなで名前を付けましょう」
と持ちかけた。
それはいい考えだと、それぞれが名付けをしたのだが、最初に言い出した尼さんは「九献」(くこん)と言った。その心は?
「お酒は三々九度といって飲む数は決まっている。それ以上飲むかどうかは気根(きこん=精力)次第」
精力次第でアレを(下半身で)飲むということだ。
二人目は「梅法師」(梅干)と名付けた。その心は?
「見るだけで涎(よだれ)が出る」
これは解説不要。
三人目は「鼻毛抜き」と名付けた。その心は?
「抜くたびに涙が出る」
お三方とも中々煩悩とは離れがたいようである。
坊さんを揶揄する笑い話は圧倒的に男の坊さんのことをあげつらうかと思いきや、尼さんも結構お笑いのネタになっているのである。このあたり、男女平等というか、ジェンダーフリーというか。。。
さてお次は「上(拾遺)の8」である。
奥さんが川で洗濯をしていると大きな蟹が出てきてハサミで奥さんの陰部を挟んでしまった。奥さんは真っ青になって家に帰り、旦那さんに相談すると、旦那さんは何とかして離そうと色々試したものの、蟹は奥さんの陰部をしっかりと挟んだままビクともしない。
これではいかんのでご祈祷をしてもらおうということになり、近所にいる山伏を呼んで来た。
山伏は奥さんの股を拡げさせ、蟹が離れるよう祈祷を始めたのだが、何の効き目もなく、蟹は陰部を挟んだまま離さないどころか、錫杖の音に驚いてますます強く挟みつけてきた。
これではどうしようもないと皆で話し合っていると山伏は「こうなっては私もこのまま帰るわけには行きません。もう最後の手段で私がこの蟹を噛み割ります」
と、大口を開けると奥さんの股ぐらに顔を突っ込み、蟹に噛み付こうとした。
ところが蟹もさるもの。一方のハサミで奥さんの陰部を挟んだまま、もう一方のハサミで山伏の頬を挟んでしまったのである。
蟹を鎹(かすがい)にして奥さんの陰部と山伏のほっぺたが繋がってしまったからさあ大変。
他の人たちがあの手この手で蟹を離そうとするのだが、蟹は両方ともしっかりと挟んで離そうとしない。
奥さんも何とかして蟹を離そうと、ついに蟹に小便をかけたのだが、蟹にはかからず山伏の顔を直撃してしまった。「山伏の顔にかかること、ひとへに、瀧にうたるるごとくなり」(原文のまま)
旦那さんがびっくりして
「女房のさね(陰部)のことはともかく、山伏殿の顔に小便がかかったのは申し訳が無い」
と言えば、山伏は
「小便がかかったのも、蟹に挟まれたのもまだ我慢が出来るけど、女房殿の陰部の臭いのが耐え難い」
と言ったのだとさ。
何と申しましょうか、特に教訓を得られるような話しではないのであるが、修行を積んだ山伏でも、如何ともし難いことがあると。こういうことだろう。
仏教の教義のような難しいことは形而上学というわけで「上」のほうの問題である。「下」にかかわる命題は、尼さんでも山伏でも並大抵の修行では克服できないようである。
さて、早いもので今年ももうすぐおしまい。この一年間このコラムにお付き合いいただいた皆様に感謝いたします。
来年はもっとえげつなく。。。ではなく、もっと楽しい話題を提供して行こうと思っております。
何はともあれ、みなさま
よいお年をお迎えください。
(来年に続く)
【言っておきたい古都がある・165】