仏の迷い道(その4)
~たまには息抜きを~
江戸時代の笑話集『きのふはけふの物語』をネタ本にしてお坊さんたちの行状を笑いながら当時の社会を垣間見る企画でも、不祥事ばかり取り上げていたのでは不公平なので、今回は少しだけ「ほのぼの」とした話題も紹介したい。
「上38」と「39」のエピソードを纏めると。。。
あるお寺でお稚児さんとお坊さんが集まって田楽を作ったのだが、普通に食べては面白くないので、それぞれ「ん」が三つ付く言葉を言ってから食べようという趣向になった。
そこで各人が「雲林院」とか「南蛮人」とか「神泉苑」とか言っては一串ずつ取って食べていたのだが、興が乗ってくるとエスカレートして食べる数だけの串数を「謎掛け」で示すというルールに変わり、みんなあの手この手でこじつけを始めたのである。「清盛の長刀」と言うから「何だ、それは?」と尋ねると
「厳島」(いつくしま=五串=いつくし)と答えて田楽を5本取る。
「仏の頭」と言うから「それは何か」と尋ねれば
「御首」(みぐし=三串)と答えて三本取る。
ついに「医者の本尊」と言う奴が現れて
「薬師如来」(薬師=八串)と言うなり田楽を8本も取ってしまったとさ。
さて、落語にもこんな話がありますね。
ところでこの『きのふはけふの物語』に収録された話からいくつもの事が分かる。
まず、「雲林院」と「神泉苑」は今でも同じ場所にあるのが凄い。時代が変わってもこれらの施設は変わることなく、と言いたいが少し変わってることもある。
神泉苑だが、ご存知の方も多いと思うが、境内の一部が料理屋さんになってしまった。貸しているのか売り渡したのかは知らないけれど、北側の入り口を見れば「東寺真言宗」の表札もあるものの、料理屋の看板のほうが目立っている。何も知らない人はあの庭全体が料理屋のものと勘違いするのではなかろうか。
しかしまあ、これもこの神泉苑が経済的に厳しかったときにこうなってしまったのだろう。生き残るためには仕方が無かった。
そう。背に腹は変えられない。
でも、境内を料理屋には変えられたのである。
「南蛮人」というのも自然と出てくる言葉だった。南蛮人=外国人というものが日常生活の中でさほど違和感なく認識されていたのではないか。
江戸時代の日本の鎖国というのは「外国とかかわりを持たない孤立政策」ではなく、「外国との交流を幕府が独占していた」状態である。
近年はようやくこれが共通認識になってきているのだが、そうなると今度は指標が逆に振れてしまって「鎖国は無かった」と言い出す人も出てきているようである。これもちょっとね。。。
「清盛の長刀で五串」というのは、平清盛が厳島神社から長刀を授かったという『平家物語』の記述に基づいているが、『きのふはけふの物語』を読んだ江戸時代の庶民がこれで笑えたというのは、こういった歴史の逸話が一般常識として定着していたということである。
「歴史」という事に関しては、現代人よりも江戸時代の人のほうが詳しかったのだと思って差し支えなかろう。
「仏の頭」で「御首(みぐし)」は現代人にはピンとこない。私もだけど。
「薬師如来」は説明するまでも無い。
まあお坊さんだって、たまにはこんな息抜きもしないとやってられませんよ。
さてもうひとつ、ほのぼの系の話にしよう。
「上(拾遺)の2」より。
田舎から来た巡礼が大覚寺で「ここは何という所か」と尋ねると「御門跡」という答が返ってきた。そこでその巡礼は
「三文にまけてくれ」
と言ったとさ。
という他愛ないエピソードなのだが、これは本文でも「御門跡を五文の関」と取り違えて、通行料を五文から三文に負けてくれと言った。「これだから田舎者は」となっている。だが、私は違う解釈をしている。
いくら田舎の人だからといっても、ここがお寺だということぐらい分かったのではないのか。どこもかしこも「拝観料」を取るので、とうとう「五文を三文に負けろ」と言ってしまったのだと。
江戸時代でも現代でも、旅行者にのしかかる拝観料の重みはかなりのものである。この教訓を読み取ったほうが良いのではないかな。
(来週に続く)
【言っておきたい古都がある・164】