仏の迷い道(その2)
~隠すほど現れる~
さて、江戸時代の笑話集『きのふはけふの物語』に描かれたお坊さんたちの行状を笑い飛ばしながら社会の様子を見てみようという企ての2回めは、不女犯、不殺生という建前は隠そうとすればするほど現れてしまう、といったエピソード。
まずは「上の20」(テキストは岩波の日本古典文学全集本)である。
「世の中には危ないものがある。たとえば脚気の焙烙売り、荷物を積み上げた馬が崖の道を歩む、盲人が下り坂を降りる、若い姑が婿と仲良くなる、舅と嫁が仲良くなる、若い後家がしばしば寺へ通う」
これを聞いた粗忽な坊主が
「ありますあります。うちの寺でも若い後家さんがよく来ますが、そりゃあもう。。。」
これだけの話だが含蓄がある。
脚気の持病のある人が焙烙なんか売っていたら何かの拍子に落としてしまうかもしれない。背中に荷物を高々と積み上げた馬が崖っぷちや川岸の細い道を歩むと、いつ落ちても不思議ではない。盲人が下り坂を降りると躓いたり滑ったりしやすい。
ここまでは『徒然草』風で何ともないが、この続きから風向きが怪しくなってくる。
義父さんが若い女性と再婚してたりすると娘婿との年齢が近くなってしまい、義母と息子の不倫になるかもしれない。お舅(同居の義父さん)が息子のお嫁さんと不倫したら大変だ。若い未亡人がしょっちゅうお寺に通うと坊さんと不倫しているのではないかと噂が立つ。
ここで粗忽坊主が「うちの寺でも若後家さんと坊さんが」と口を滑らせてしまったと。
恐るべしは色欲。
頓知で有名な一休さんも晩年(77歳ぐらいのとき)は森女という20歳前後の女性と同棲していた。まあ、これは許してもらえているようだ。
しかし「五郎兵衛さんの京都」でも少し言及したが、戦前、ある大教団の法主が使途不明金の発覚という大きなスキャンダルは何とか乗り切っていたのに、同時期に噴出した愛人問題で躓いて退任に追い込まれてしまった。
昭和の戦後期、京都の仏教界で一番のワルと言われた高僧の行いで、いまだに言われるのは祇園の芸妓に子供を産ませた一件である。
このあたり、一般の人がお坊さんというものにどのような点で一番潔癖なものを求めるかが分かる。
以前にも書いたのだが、世のお坊様方にはくれぐれも心していただきたい。
次は「上の21」にあるお話。
ある人がお寺に長老様を訪ねてきたが、「お留守」と言われた。
せっかく来たのに残念だと、しばらく休んでから、ちょうど竹の子の時期なので竹薮を見てみようと行ってみれば、竹薮の中で長老が雁の羽をむしっていた。
そこでこっそりと近づき長老に「こんにちは」と皮肉な挨拶をすると長老が「雁の羽を枕に入れようと思っているが、慣れないので中々上手く行かない」
と言う。
そこでその人は「それなら私がやってあげましょう」と、親切に羽を全部むしってくれた。そして長老に羽だけを渡して、「身の方は不要でしょうから私がもらいます」
と言って持ち帰り、美味しく食べたとさ。
とまあ、こんな話だが、偉い坊さんでも精進料理ばかり食べていたわけではないようだ。
江戸時代の人たちも坊さんだって色々なものは食べていると知っていた。まあ大っぴらには言わなかっただろうけど。
こういう話が作られるというのは、偉そうにふんぞり返っていてもやってることは自分たちと同じ、と揶揄する当時の人たちの醒めた目があったのだ。
「日本人は宗教に寛容」とも言われるが、ただ寛容なのではなく、そこにはちょっと距離を置いて自分に都合のよいところだけをつまみ食いするという一種の知恵がある。そう。
苦しいときの神頼み。
ただし、仏様ではなく神様である。
そのあたり、やっぱり外国から来た人(仏様)よりも身内(神様)のほうが頼りになるということか。
しかしね、七福神だって、日本人の神様は恵比須さんだけで、他の6人は外国(インドと中国)から来た人たちですからねえ。。。
もっとも、七福神のみなさんはかなり日本的になっているのは確かである。
あまり堅いことは言わないでおきましょう。
(来週に続く)
【言っておきたい古都がある・162】