仏の迷い道(完結編)
~迷わずに迷いの道を一直線~
江戸時代の笑話集『きのふはけふの物語』を読みながら、その当時の社会の様子を垣間見るというコンセプトで続けてきた今回のシリーズもいよいよ締め括り。しかしまあ、「社会の様子を」などと言いながら実際に見てきたのは坊さんたちの様子がほとんどであった。
もちろん、最後もそういった「困った」お坊さんの話である。
「下(拾遺)の22」にあるエピソード。実はこの話が『きのふはけふの物語』の最終話でもある。奇しくも最後が一致した。
黒谷、といっても現代でその通称を持つ金戒光明寺ではなく、比叡山西塔北谷の別所である青覚寺に毎月檀家から呼ばれて出向く坊さんがいた。まあ、要するに、月命日に檀家へ行って、お経をあげてからお布施をもらって斎(とき=法事の後の料理)を食っていたわけだ。
ある年の1月10日、裕福な檀家で散々飲み食いして、その日はいつにも増して大酒を食らった。だもんだから帰り道でスッテンコロリンと田んぼに転げ落ち、袈裟から衣から小袖からことごとく汚してしまったのである。
お供の者に抱えられてようよう寺に帰り着いた。
朝になり、酔いが醒めてから、「ああ、つまらない酒を無理やり飲まされてとんでもない損をしてしまった」
と相手を恨んだのである。(注・ここでこの坊主に「それはお前が意地汚く飲んだんだろう」とツッコミを入れないようにしましょう)
さて、2月になり、また檀家で酒を勧められたのだが、そこでお供の者が、「先月もお酒を飲んで田んぼに転げ落ちました。ですからもうお酒は出さないでください」
と言ったので杯は取り下げられてしまった。
そしてその日の帰り道、この坊さんはまたもや同じ場所でスッテンコロリンと田んぼに転げ落ちてしまったのである。
助け出された坊さんはそのお供の者に、「先月は酒を飲みここで転げ落ちた。今日は酒を飲んでないのにここで転げ落ちた。ここで転げ落ちるというのは前世からの因縁に違いない。だからこれからはもう酒を断ったりするな!」
と言いましたとさ。
踊る阿呆に見る阿呆、同じ阿呆なら踊らにゃ損損。
ではないが、酒を飲もうが飲むまいが田んぼに転げ落ちるならば、飲まなきゃ損だわ。
しかし法事で坊さんにお酒を勧めるのが普通であったわけだな。このあたり、もう戒律なんて建前だけで、また酒を勧める檀家さんも坊主が酒を飲むのを認めているわけである。このへんが日本的だ。
一神教の神様は「唯一絶対の神」だから人間が神様に服従しなければならない。
しかし日本では「ご利益」といって、神様や仏様のほうが人間に奉仕してくださるわけである。
有難いではないか。
酒を飲んで転ぶも前世の因縁。
酒を飲まずに転ぶのも前世の因縁。
イスラム教なら「全てはアラーの神の思し召し」ということで片付けてしまうかもしれない。
高僧にも迷いはある。その迷いを断ち切ることなく仏の道をひたすら歩むのが日本的なのだろう。修行が終ることはない。
お坊さんだって迷う。
いわんや民衆をや。
堅いことを言わずに、ご利益をつまみ食いする。
困ったときの神頼み、なのだが。。。
困ったときに仏様には頼まない!?
これが日本人なのだ。
まさかの時には神様が助けてくださる。普段は無視してるけれど。
なんだかんだ言いながら、生きてるうちは神様、死んだら仏様と、役割分担が出来ているのではないのか。
迷うことはない。われわれはその時々の都合によって、それぞれ都合の良い神仏を拝めばよい。宗派も宗旨も関係ない。
「本当にこれで良いのか」と迷うときもあろう。
しかし、迷うことなくその迷いの道を行けば、そのうちに何か良い事がある。
そう。生きていればそのうちに何か良い事がある。それが神仏の加護というものである。
ありがたや、ありがたや。
「仏の迷い道」(完) 【言っておきたい古都がある・178】
国立国会図書館デジタルコレクション
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2533093