仏の迷い道(その1)
~仏道は仁義なき戦いの世界~
今回から新シリーズであるが、前回の「五郎兵衛さんの京都」でも見たとおり、江戸時代には坊さんを揶揄した笑い話が多い。
そこで今回はその坊さんを笑い飛ばした話を集めて昔の社会の様子を覗いてみようという企てである。
例によって今度のネタ本を明らかにしておくが、それは『きのうはけふの物語』である。今風に書けば「昨日は今日の物語」になる。描かれている時代は戦国期から織豊時代にかけてであるが、実際に成立したのは江戸時代の寛永年間(1622~44)の初め頃らしい。そして寛永半ばから正保4年(1647)までのおよそ15年間で全く異なった整版が四種類以上も出た、つまり同じ本が四つ以上の出版社から刊行されていたのである。当時としてはかなりのベストセラーではないか。
ちなみに作者は不明。
今回もテキストは岩波の日本古典文学全集『江戸笑話集』に収録されたものである。しかしこの本は重宝するなあ。。。
さて、まずは『きのうはけふの物語』上の18にあるエピソードを紹介しよう。
法華宗の一致派と勝劣派とが論争をしたが、勝敗がつかないまま掴み合いの喧嘩になり、ついには相手の睾丸を握り潰しにかかった。
この騒動を見ていた人が詠んだ狂歌。
法華経のその勝劣はしらねども きんを攻められいっち迷惑
昔から宗派の派閥争いというのは熾烈であったのだ。
このエピソードも基になる騒動は実際にあったのだろう。最初は穏やかな論争であったものが、段々ボルテージが上ってきて、ついに激昂したと。そして喧嘩になるともう仏の道もあったものではない。委細構わず相手の急所(睾丸=きんたま)を絞めにいくという、かなりえげつないものがある。
法華宗の一致派と勝劣派というのは室町時代の終わり頃にはかなり対立していたという。一致派のほうが主流で勢力も強かった。
法華経の後半の十四品(本門)は前半の十四品(迹門)と理が一致すると説くのが一致派で、本門は迹門の理に劣ると、両者の優劣を説くのが勝劣派。
民衆にとってはどうでもいい事なのかもしれないのだが、坊さんたちにとっては何よりも大事なのかもしれない。特にこの場合は同じ宗派である。他宗相手より同宗相手のほうが感情が激しく高ぶるのだな。
近親憎悪だ。
宗派が違えば教えの根本が違うのだから相手を無視することが出来る。しかし同宗派だとそうは行かない。根本が一緒だと僅かの違いでも見過ごすわけには行かない。「こっちが正しい」「いや、こっちだ」になってしまう。
きっとイスラム教のスンニー派とシーア派もこんな感じなのだと思う。
政治の世界でも同じ政党内の派閥争いのほうがえげつないですから。
もちろん、違う宗派との論争が紛争になったこともある。
前にも書いたかもしれないが、天文法華の乱という戦いがあった。この名称だけ聞くと法華宗が戦争を起こしたように思うが、実は比叡山の僧兵が京都の町に雪崩込んで来て法華宗と大戦闘を繰り広げたのである。
時は天文5年(1536)、天台宗の僧と法華宗の僧が論争をして、これ事態はクールで知的なディベートだった。で、勝敗を言えば法華宗側の勝ちだったのだが、それを聞いた比叡山の僧兵が
「お前らは言い負かされておめおめと帰ってきたのか!」
と怒り、今日の都に殴り込みを掛けてきて法華宗と戦い、僧兵が勝った。
さて、この戦争、どう考えても「比叡山僧兵の乱」なのであるが、歴史上は「天文法華の乱」と呼ばれている。ははは、歴史は勝ち組がつくるのだ。
このケースでは天台宗も法華宗も『法華経』を中心に学ぶ宗派であることが「近親憎悪」に近いものをもたらした。宗派として一番重要視する仏典が別のものであれば論争にはならなかっただろう。なったとしても最後は相手を無視できただろう。でも、同じものに対して「ここはこうだ」「いや違う」となると、もう相手を無視することは出来ないのだな。相手の言い分を認めてしまうと自分の寄って立つ基盤が失われてしまうから。
時代が変わっても、これは変わらない。
(来週に続く)
【言っておきたい古都がある・161】
国立国会図書館デジタルコレクション
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2533093