井戸はどこにある?
〜小野篁はどこから冥土に通っていたのか〜
前回、前々回と六道の辻と六道珍皇寺について書いたわけだが、その関係で原典史料に当っているうちに何かが足らないという気がしてきた。何が足らないのかは分らないのだが、確かに何かが足らないのである。
まず『都名所図会』の珍皇寺全景図を見てみよう。
安永9年(1780)当時にはあって今はない「六道の辻」がある。
そして何と、「ゑんま堂」と「篁堂」がちゃんと二つ並んで描かれているではないか。しかも現在と同じ位置である。お堂もひとつの物が内部の仕切りで二つに分かれているようだ。これも現在と同じ。
こういうのを見ると嬉しくなってしまう。
ちなみに篁堂と閻魔堂の中にあるのは小野篁立像と閻魔坐像。写真と同じものが『都名所図会』に描かれているお堂の中にもあったのである。
さらにその隣には「むかひ鐘」とある。迎鐘も現在と同じ位置にあったのである。しかもちゃんと小屋の中に入っている。変わっていないのだ。現在の写真も載せておこう。
こうなると何が無いのか不可解なのだが、いつものツアーの要領で『都名所図会』を辿ってみた。すると。。。
な、な、な、無い!!!
間違いなく無い!
小野篁が冥土へ通う入り口にしていたという井戸が無いのだ!
今、その井戸がある場所はそもそも『都名所図会』の全景図に入っていないのである!
どういうことなのか?
現在は写真のような井戸がある。この井戸は江戸時代にも同じ位置にあったと見てよかろう。しかし、「冥土通いの井戸」という記述は無いのだ。
今度は本文を確かめてみた。すると「冥土へかよひし道なりとそ」となっている。これは篁堂の説明の中にあって、「此所より」という記述に続くものだ。しかも「井戸から冥土に通っていた」とは書かれていないのである。
ということは、江戸時代の認識では篁は井戸からではなく、このお堂の中に入り、そこから冥土へ通っていたのではないのか。
小野篁が冥土へ通った「道」はあっても「井戸」は無かったのだ。
それでは一体何時から「冥土通いの井戸」が出来たのだろうか。
これは謎である。
ミステリーだ!
こうなると「冥土通いの井戸」の伝説は意外と新しいということになる。
江戸後期か? 明治期か?
興味は尽きない。
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【言っておきたい古都がある・58】