悪霊だらけ(その9)
~怨霊が人間に翻弄されている~
さて、今回からは「日本三大怨霊」の2人目、平将門のお話に移る。
この連載を読んでこられた方ならもうお分かりと思うが、ここでも「将門は本当に怨霊になったのか?」という展開が待っているわけで、そこには菅原道真よりもっと凄い「人間の都合」が働いているのだ。
どういう事かというと、将門の評価は何度も変化しているのである。
平将門は藤原秀郷(俵藤太)に倒されたが、その首が平安京で晒されたとき、何と3ヵ月以上も腐敗せず、目をカッと見開いたまま牙(!)をむいていたという。
私などは「それは作り物だったのでは?」と思ってしまうのだが、その首は夜になると
「体はどこだ! 繋がればまた戦うぞ!」
と叫んでいた由。
ここまでなら怨霊らしいのだが、ある晩、この首の前を通りかかった人が
「将門のこめかみ射たのが俵藤太とは、こめがこめを射たか」
(こめかみと俵の中の米を掛けた駄洒落)
という親父ギャグを飛ばし、それを聞いた将門の首が萎れたとのこと。
怨霊を脱力させるぐらいの「しょーもなさ」だったか。
(注)正確に言うと「将門は こめかみよりぞ 斬られける 俵藤太が はかりごとにて」という短歌だった。
あまりのことに、「もう京都にはいられぬ」と思ったのか、将門の首は空を飛んで関東へ帰っていった。
その関東では、将門塚(平将門の首塚と言われている)の周辺で天変地異が頻繁に起こり、これを将門の祟りと恐れた当時の民衆を静めるために神と祀られ、延慶2年(1309)には神田明神に合祀されることになった。
時は流れて江戸時代になっても、徳川幕府により平将門を祭る神田明神は江戸総鎮守として重視されている。
三代将軍家光の時代に、勅使として江戸に下向した大納言烏丸光広が幕府より将門の事績について聞かされ、「将門は朝敵に非ず」との奏上により将門は「朝敵」ではなくなった。
明治維新後は将門は朝廷に背いた朝敵であることが再び問題視され、逆賊として扱われるようになった。
明治7年(1874)には教部省の指示により神田明神の祭神から外されてしまう。
その一方で明治後期になると将門復権運動が行われた。
戦後になると、朝廷の横暴な支配に敢然と立ち向かい、新皇に即位して新たな時代を切り開いた英雄として扱われることが多くなる。
昭和51年(1976)にはNHK大河ドラマ「風と雲と虹と」の主人公になり、これで名実ともに名誉回復したといえよう。
昭和59年(1984)になって、平将門は再び神田明神に合祀された。
まあ、良い人になったり悪い人になったり、将門本人とは全然関係なく、生きている人間の都合でコロコロと変わるのである。
ところで近代になって、この「将門の怨霊」が活躍したことが2回ある。
関東大震災で倒壊した大蔵省の仮庁舎を建てるために将門の首塚を壊したら、工事関係者や大蔵省職員、さらには時の大蔵大臣までもと、相次ぐ不審死が起きた。
このため将門の祟りが省内で噂されることとなり、大蔵省は動揺を抑えるため仮庁舎を取り壊し、首塚を作り直して石碑も建てた。
もっとも、この十数年後、大蔵省の庁舎は落雷で焼失する。
役人のおざなりな1回限りの供養では鎮魂になっていなかったのかな。
戦後にGHQが周辺の区画整理にとって障害となる首塚を撤去しようとしたら、ブルドーザーが横転して人が死ぬなど不審な事故が相次いだため、アメリカは計画を取り止めた。
やれやれ、この凄い力で戦争も勝たしてくれたらよかったのに。
しかし、将門の怨霊はよほどこの場所にいたいのかな。
それにしても将門の怨霊は「逆賊」に戻されてしまった明治初期には何も祟っていないのだな。
首塚さえ無事ならばそれでよいのだろうか。
その将門の首なのだが、京都と関東の間の土地にも「伝説の場所」がある。
どうして途中にあるのかというと、京都から関東まで飛んで帰る将門の首は
途中で力尽きて落ちた!!!
帰る途中で落ちるなんて。。。
いくら無念でもこれは自己責任だろう。
しかし途中で力尽きて落ちるとは。。。
そんな軟弱な怨霊がいるか?
(来週に続く)
【言っておきたい古都がある・109】