悪霊だらけ(その7)
~怨霊などはいなかった?~
菅原道真と対立し、左遷にも関与の可能性があるにもかかわらず、道真の「怨霊」に殺されていない人がいる。
その人の名は三好清行。
この人が有名なのは一条戻り橋のエピソードである。
清行が死に、その葬列が一条の橋を渡っていたとき、清行の息子の浄蔵が修行先の熊野から帰ってきた。そして橋の上で葬列と浄蔵が出会ったとき、死んでいた清行が一時的に生き返ったという。
あの世から戻ってきたので「戻り橋」と言われるようになったと。
さて、この清行さん、元慶5年(881)の方略試(官吏の登用試験。今風に言えば国家公務員上級試験か)を受験して試験官だった道真に落とされている。
この試験、220年間に70人ほどしか合格していないという難関で、おおむね3年に1人しか合格できなかったわけだ。
だから気落ちすることもないと思うのだが、清行さんはよほど自信があったのに不合格だったからか、その後、道真とは何かにつけ対立することになる。
もっとも、道真に落とされた3年後、清行は見事合格を果たした。
そしてその2年後の仁和2年(886)に道真が讃岐に転勤。まあ都落ちだろう。
これで清行さんは喜んだに違いない。
この清行さん、「阿衡の紛議」のときも、宇多天皇を擁護した道真に対して、基経に有利な意見を述べている。
しかし道真は藤原基経の死後、宇多天皇に取り立てられて都に戻る。
清行さん、「ちっ、帰ってこなくてもいいのに」と思っただろう。
その後、道真の長期政権で周りのものが「飽きてきた」とき、清行は
「昌泰4年(901)は革命が起こる年だ」
として道真に辞職を勧告した。
これは「宣戦布告」だったかもしれない。
「危ないから辞めて逃げたほうが良い」というアドバイスではなく、「辞めさせてやる」という決意表明だったのかも。
実際、この後の流れは道真への讒言へと向かっていく。
道真の左遷が決まったとき、清行は
「流罪にするのは道真の親族と宇多上皇の側近だけにするように」
と進言している。
連座する人を少なくしようという人道的意見にも見思えるが、道真の親族と宇多上皇の側近は全員「いてこませ」と言ってるわけである。
さらに道真の左遷後、清行は同時に失脚した道真の息子である高視の後任として大学頭に就任している。どう考えても陰謀だろう。
道真も清行に対して恨みを持ったはずである。
ところがこの三好清行さん、怨霊になった道真に祟られるどころか、72歳まで生きて天寿を全うしているのであります。
清行だって怨霊の犠牲になってもおかしくないではないか。
なぜ助かった?
そもそも道真は怨霊などにはなっていないのではないか。
前回でも指摘したように、「道真の怨霊」というのは藤原時平と醍醐天皇の政治改革を阻止するための方便だったのではないのかな。
それとも、道真の怨霊は三好清行だけは「恩讐の彼方」で許したとでも?
それはないで。
藤原時平を39歳で死に追いやって、三好清行は72歳の天寿を全うさせる怨霊などいるものか。
私は道真の怨霊など存在しなかったと思っている。
(来週に続く)
【言っておきたい古都がある・107】