悪霊だらけ(その4)
~正当な恨みか、逆恨みか?~
前回の最後で出てきた疑問。
「遣唐使のときは豪腕を振るえた菅原道真が大宰府のときは何故なす術がなかったのか」
一言で言ってしまうと、時代が変わり、人も変わったということ。
菅原道真の後ろ盾は宇多天皇だったが、この2人にどのような縁があったのかを押さえておく必要がある。
その縁というのは「阿衡(あこう)の紛議」である。
宇多天皇が即位してまもない仁和3年(887)11月、藤原基経に関白になるよう辞令が出された。
その当時、重職に就くときは「三顧の礼」と「三譲の礼」を尽くす習慣があった。
つまり、就任を求められたらすぐに引き受けるのではなく一旦は辞退し、それに対して改めて就任を依頼する。そういうセレモニーを3回繰り返してから就任するのである。
宇多天皇から藤原基経への関白就任依頼もこれに基づき、基経はまず一度は辞退した。
で、二度目の辞令が来たとき、辞令の中に
「よろしく阿衡の任を以って卿が任と為すべし」
という文言があった。
これに気づいたのが左小弁兼式部少輔(平たく言えば、官庁の指揮監督と文官の人事や礼式の係を兼任していた役人)の藤原佐世で、
「阿衡には職務権限がない。上手いこと言って関白を棚上げにするつもりだ」
と噛み付いた。
そして基経は怒って出仕拒否、つまりストライキに入ったわけである。
今風に言えば、総理大臣が認証を拒否して自宅にこもり、「納得のいく説明をしてもらうまでは仕事をしない」とゴネたのだからさあ大変。
事態は紛糾し、ついに年を越した。
翌年4月、左大臣の源融が事態の打開を図るため、大学博士とか文章博士とかに意見を聞いたが、みんな「阿衡に職掌なし」ということで、客観的な情勢は宇多天皇に不利なほうへと傾き、「阿衡」の文言を入れた左大弁(官庁の役人を指揮監督する役人である)橘広相(ひろみ)は窮地に陥る。
このとき宇多天皇と橘広相を擁護する論陣を張ったのが、讃岐の長官であった菅原道真である。
6月になってついに宇多天皇が折れ、「橘広相は間違っていた」と表明し、事態の収束を図った。
ところが今度は基経が「責任者の広相を流罪にせよ」と宇多天皇に迫り、宇多天皇はそれを拒んだため、論争はさらに長引くことになった。
結局、宇多天皇は「阿衡」の文言に関しては基経に屈したが、道真の援護もあり、橘広相の処分に関しては断固として広相を守ったのである。
さて、月日が流れて基経が死ぬと、宇多天皇は主導権を奪回し、阿衡事件で自分の味方になってくれた道真を都に呼び戻して政権を担当させた。
これを面白く思わない藤原氏が、道真を遣唐使として国外に追いやろうとしたのだが、道真はその遣唐使そのものを廃止して政権に留まった。
このような豪腕が振るえたのも、背後に宇多天皇がいて、誰もが宇多天皇は阿衡の紛議の際、橘広相を最後まで守ったと知っていたから。つまり、道真に逆らってもまた宇多天皇が出てくるだろうし、そして、もう基経はいないのだから誰もその意向には逆らえないだろうという共通の認識があったから。
「宇多天皇は橘広相を守ったように道真も守るだろう」
みんながこう思っていたから道真は豪腕が振るえたのである。
ところが大宰府の場合、すでに宇多天皇は譲位して上皇になり、道真も政権を担当して10年がたっていた。
10年にもなると、官僚の顔ぶれも変わってしまい、もう阿衡事件のことを覚えている人も少なくなってしまったのである。
時代が変わり、人も変わった。これを理解していなかったのが道真ではないか。
言い伝えでは、醍醐天皇と藤原時平は贅沢を好んで道真に注意されたという。
しかしそれが理由ではあるまい。
政権を任された当時、道真は改革派だったかもしれない。
しかし10年にわたる長期政権で、最初は改革だったことも定着してそれが普通になる。そこに醍醐天皇や藤原時平のような若い世代が出てきて、何か新しいことをやろうとしたときに、「そんな事はしなくて良い」と道真は拒否したのではないのか。改革で変えたことが定着した後、それを維持するだけでは、かつての改革派が守旧派になるということ。
しかも宇多天皇の「威信」はすでに薄れているのに、自分が一番偉いみたいに思って「調子こいた」のが道真さんではないのかな。
大宰府に行かされるとき、醍醐天皇という「錦の御旗」は藤原時平が握っていた。
時代も人も変わっていたのである。
こうして道真は怨霊になる道へ進んでしまった。
(来週に続く)
【言っておきたい古都がある・104】