悪霊だらけ(その3)
~生きてるうちは良い人だった?~
さて、無念のうちに死んだ人がその恨みで幽霊や怨霊になるというのは共通の認識だろう。お岩さんやお菊さんのような無名の一市民は幽霊になり、菅原道真のような社会的地位のあった「偉い人」は怨霊になると。まあお岩さんもお菊さんもフィクションだけど。
そういえば、有名人は幽霊にはならない。歴史上の人物で怨霊になった人はいるが、幽霊になった人はいないようである。そう、幽霊というのは生きてるうちは平凡な人たちだったのである。
このあたりから、有名な怨霊は実在の人物だが、有名な幽霊は架空の人物という図式が浮かび上がる
怪談というのが娯楽として楽しめるのは、その幽霊はただの民衆の一人で、自分が恨む相手にしか現れないから。つまり観客は自分たちには何の関係もない他人の悲劇や破滅を見て楽しむのである。
余談だが、シェークスピアも喜劇よりは悲劇のほうが有名ではないか。『ハムレット』『マクベス』『オセロ』『リア王』『ロメオとジュリエット』これら全て悲劇である。
やはり人間にとって他人の不幸を見るというのは楽しいことなのだ。
ひょっとしたら、こんなのを喜ぶ観客のほうが悪霊っぽいかもしれない。
そこで菅原道真である。
日本三大怨霊の一人で、もっとも有名な人だろう。
左遷され、失意のうちに死んだから怨霊になったという。
それでは、この道真さん、生前は良い人だったのか?
私は「悪人」とは言い切らないが、結構したたかな人だったと考えている。
道真が中央で栄達したのは宇多天皇の引き立てによる。これは「阿衡の紛議」という宇多天皇と藤原基経とが対立した紛争が起きたときに、道真が宇多天皇擁護の論陣を張ったからである。
基経が死んで「重し」の取れた宇多天皇が道真を抜擢した。寛平3年(891)のことである。
その後、道真は辣腕を発揮したようだが、やはり藤原氏に疎まれて寛平6年(894)8月21日に遣唐使として大陸に渡る辞令が出た。つまり「こんな奴は外国へ飛ばしてしまえ」という藤原一族の策謀である。
ところが道真はこれに対抗して、同年9月30日に遣唐使を廃止してしまう。つまり「行かされてたまるか」ということ。
教科書には「道真は遣唐使を廃止した」とあっさり書いてあるが、その裏には大変な権力闘争があったのだ。
それにしても自分の意に染まない転勤を阻止するためにその制度そのものを廃止するとは、かなりの豪腕ではないか。
危機は脱したものの、この一件で道真は自分の立場を強化する必要性を感じたらしく、寛平7年(895)に長女の衍子を宇多天皇の女御にした。女御というのは天皇の奥さんで中宮に次ぐ女性だと思っておけばよい。
さらに寛平9年(897)には三女の寧子を宇多天皇の皇子である斉世親王の妃にした。
どちらに子供が生まれても道真の孫である。明らかに藤原氏に対抗する外戚政策だろう。
しかし、この組み合わせで両方に男子が出来たら、道真の孫同士である2人は普通なら従兄弟(いとこ)だが、この場合は叔父と甥の関係になる。でも祖父(道真)は同じ。しかも宇多天皇と斉世親王は親子だが共に道真の義理の息子となるわけだ。だから宇多天皇は息子の兄になった。
しかも長女の衍子は妹である寧子の義理のお母さんになってしまった。妹が男子を産めば本来は甥だが、それと同時に孫でもあるという、中々ややこしい関係が出来てしまう。
でも、そんなことを気にするようでは政権は維持できないのである。だいたい、藤原氏だって似たようなことをやってきたのだから。
さて、いよいよ昌泰4年(901)に道真は「讒言」されて大宰府に左遷となる。
その理由となったのが、「醍醐天皇を廃して斉世親王を皇位につけようと企んだ」というもの。
この背景には道真の一族が政治や行政の重要なポストを占めるようになってきたというのがある。
私は道真に醍醐帝廃位の考えはなかったが、藤原氏に代わって菅原氏が天下を取ろうという野心はあったと思う。それが打ち砕かれたのである。
しかし何故、遣唐使のときは豪腕を振るえた道真が、大宰府のときは何も出来なかったのか。前と同じように粉砕すればよかったではないか。
それが甘んじて左遷の辞令を受け、行きたくもない大宰府へと赴いた。
どうして道真は強権を発揮できなかったのか?
どうして怨霊にならなければいけなかったのか?
(来週に続く)
【言っておきたい古都がある・103】