幽霊・亡霊・死霊・生霊・怨霊(その2)
~個人主義の幽霊、集団主義の亡霊~
さて、幽霊は自分の姿を目指す相手に見せる所に存在意義がある。見せてこそ幽霊である。われわれが幽霊を見ているのではない。幽霊がわれわれに見せているのである。自分はまだこのような姿でこの世に留まっている。
これは全部
「お前のせいだ、お前のせいだ、お前のせいだ」
と、しつこく絡んでくる。付き纏いである。ストーカーのようなものだ。幽霊の存在に科学的な根拠と人格が認められたら、幽霊にはストーカー防止法が適用できるかもしれない。
そして幽霊には名前がある。お岩さん、お露さん、お菊さん、有名どころはどこの誰かが分かっていて、いわゆるアイデンティティがはっきりしているのだ。あくまでも一個人なのである。
それに対して亡霊というのは名前がないのではないか。
たとえば「平家の落武者の亡霊」とか、集団的なのである。もちろん、その集団の中から1人の亡霊が出てくることはある。その場合、それで亡霊が幽霊になるのではなく、やはり亡霊のままである。「亡霊」という「霊」に分類されているから亡霊なのだ。
個人的か、集団的か。
この視点から他の霊も検討してみよう。
生霊は存命している人の霊だから個人である。
怨霊も菅原道真とか平将門とか崇徳院とか名前が分かっているから個人だろう。だいたい怨みなんて基本は個人的なものである。
死霊は漠然としている。どこの誰とも分からないものが多い。
やはり亡霊と死霊とからは「個」というものが消えているのではないか。整理をすれば
個人的=幽霊・生霊・怨霊。
集団的=亡霊・死霊。
ということになる。
さて、そうなると、もし亡霊の1人が集団の中から出てきて自分の名前を告げたら、その亡霊は幽霊になるのであろうか?
基本的には「個人」である幽霊と生霊と怨霊に対して、亡霊と死霊は「集合体」であると考えれば、亡霊も死霊も集団の名前という事になる。阪神タイガースとか読売ジャイアンツというのと同じことだ。
プロ野球の選手がどんなに個人として活躍しても「所属チームの一員」という立場から抜けられないのと同様、平家の落武者の亡霊が1人で出てきて名乗りを上げたとしても「亡霊」という集団の一員であることに変わりはない。亡霊が名前を名乗ってアイデンティティを確かなものにしても、亡霊は亡霊なのである。
個人主義の幽霊。
集団主義の亡霊。
ざっくりと、このように考えても良いのではなかろうか。
(来週に続く)
【言っておきたい古都がある・182】