とかく博打は(その2)
~これが博打の極意か?~
前回の冒頭でも書いたが、スポーツ選手がお咎めを受けたのは法律違反のカジノに行ったからで、あれが競馬か競輪なら別に何ともなかったはずである。それとも、「優秀なスポーツ選手は博打などしてはならない」と綺麗ごとに終始するのだろうか。
まあ、昔から「水に落ちた犬は叩け」と言うので、それまで持て囃されていた選手を叩くのは中々面白くてやり甲斐があるのかもしれない。ただ、その諺の正しい形は「水に落ちた悪い犬は叩け」で、水に落ちた人を誰でも彼でも叩いて良いわけではない。
何はともあれ、たとえばお坊さんが趣味で競馬をやっていても私は悪くないと思う。もちろん、拝観料を鷲摑みにして競馬場に繰り出すというのは論外だが、一般的な常識の範囲内であれば問題ないだろう。まあ、御仏の御慈悲で当たるのかどうかは知らないけれど。
しかしそれでも、御仏は必ずしも博打を否定しないと言う話が『古今著聞集』にある。
巻12(博奕第18)423より。
花山院右大臣忠経が全盛期の頃、博打が流行っていた。忠経は禁止しようとしたのだが誰も従わない。夜昼関係なしに老いも若きも丁半博打に耽っていたと。
そこで雑役に雇われていた侍が家に帰って溜息をついている。同じように雑役をしている女房がどうしたのかと尋ねると、「毎日みんなは丁半博打をして楽しんでいるのに私は金がないから仲間に入れない。たくさんいるのに自分だけが仲間はずれだ」
と嘆く。
それを聞いた奥さんが、「私が何とかする」と言って、朝になると自分の着物を脱いで500文のお金を借りてきた。男は喜んでその金を懐に博打をしている連中のところにやって来た。
さて、そこでこの男、僅か500文ぐらいの金をチビチビ賭けても仕方ないと、1回で全部賭けたのである。
するとそれが当たり。
お金は倍の1貫になった。
そこでしばらく様子を見ていて、また「ここぞ」と思う所で一貫を全部賭けた。
するとまた当たって2貫になった。
ここでこの男、ふと思ったのである。「これは元々女房が着物を手放して作ったくれた金だから、500文は女房に返さなければならない」
で、500文を別に取り分けて、残りの1貫500でまた賭けをした。するとまた当たって3貫になった。
それからは場の様子を見ながら1貫、2貫と適宜に賭けて、ついに30貫以上になったのである。
ここでこの男は「これ以上は派手な振る舞いをしてはいけない」と思い、「ちょっと休みます」と言ってその場を立ち去った。
博打仲間たちは苦々しく思いながらも、この次は思い知らせてやると悔しがったと。
さて、この男、家に帰ると儲けたお金のうち10貫を奥さんに渡し、自分は残りの20貫を斎料として出家した。
御仏の御慈悲で博打に勝ったのか。と思ってしまうのだが、この主人公の男は決して闇雲に賭けてはいない。場の様子を窺いながら流れを読んで「ここぞ!」というときに思い切って賭けている。中々したたかなのだ。本当に生まれて初めて博打をやったのだろうか?
しかも抑制が効いていて、30貫になったところで止めている。引き際が良いのだ。これはそうそう出来る事ではない。退出するときも「少し休む」と言って、いかにも「逃げるのではない」というニュアンスを見せている。まあ、本当は勝ち逃げをしているのだが。
しかも帰宅してからは奥さんが生活に困らないだけのお金を渡して、自分は出家した。これもそうおいそれと出来る事ではない。
これはいわゆる「素人の馬鹿づき」というやつだ。どんな博打でも始めてやったら意外と勝てる。それに味を占めてのめり込むと人生が狂うのである。批判されたスポーツ選手もこの口だろう。「やめときゃいいのに」と誰もが思うのだが、そう思う人でも自身がその立場になったら同じことをするものである。
やはり博打は怖い。(来週に続く)
【言っておきたい古都がある・189】
古今著聞集(ここんちょもんじゅう)
鎌倉時代、13世紀前半、伊賀守橘成季によって編纂された世俗説話集。建長6年(1254)に成立し、その後増補された。
事実に基づいた古今の説話を集成することで、懐古的な思想を今に伝えようとするものである。20巻30篇726話からなる。
今昔物語集・宇治拾遺物語とともに日本三大説話集とされる。
橘成李(たちばなのなりすえ)は官職は伊賀守で、摂政関白・九条道家の近習。