四千年の知恵(その4)
~唯々諾々の果てにあるもの~
唯々諾々。
自分の意見を少しも主張せずに、他人の言いなりになって盲従すること。 あるいは、事の良し悪しに関わらず、ただ人の意見に従って言いなりになること。
「唯々」は「はいはい」という返事。 「諾々」はすぐさま承知すること。
近年ではインターネットなどでアメリカに対する政府の姿勢を詰るときに使う言葉ではないかと思うのだが、「言いなり」とか「追従」と言う人はいても、この言葉を使う人はあまりいないようだ。
ただ、これが日本でよく使われるようになったのはそんなに古くないらしい。
昭和31年(1956)に毛沢東が共産党批判を受け入れると表明した時、この「唯々諾々」という言葉を使い、有名になったそうである。ただ、どういう文脈で使ったのか分らないのが残念。
ただ、毛沢東の批判容認に関しては、あまりにも多くの批判が殺到したので1年で撤回したとか。
それに懲りて今でも思想統制や報道管制をやっているのかな。
「過ちて改むるに憚ることなかれ」(論語)
これも中国4千年の知恵である。
毛沢東さんは批判を受け入れる(言論の自由を認める)という過ちを犯したとき、1年で改めて言論統制をした。人民は党に唯々諾々と従えと。
それでは唯々諾々と従っていたらお友達になれるのだろうか。
それが、どうもそうではないみたいである。
「飛鳥尽きて良弓蔵(かく)れ、狡兎死して走狗煮らるる」(史記)
相手に尻尾を振って唯々諾々と従っていたのに、用済みになればあっさりと捨てられる。場合によっては煮られる(殺される)わけだ。
それじゃ何か、唯々諾々でも粛清される。ほな、どないせい、ちゅうねん? という話になるだろう。世の中闇だな。
こうなると為政者のほうに態度を改めてもらわなければならない。
「千人の諾々は一志士の諫言に如かず」(史記)
言いなりになる千人よりも、本音をズバリと言ってくれる人のほうが良い。
これは中共(中華人民共和国)だけではなく、アメリカであろうが日本であろうがロシアであろうが同じである。ただ、こういう言葉があるということは、こういう事をしている人はいなかった、ということだ。誰も諫言などしていないから、こういう言葉が出来る。やはり世の中は闇だ。
まあ媚中派親米派にそれを期待するのは無理としても、せめて是々非々で対応するとか。
あるいは「もう唯々諾々と従ったりしません」と宣言して、今度から「不承不承に従う」とか。
こっちの方がありそうだな。
(来週に続く)
【言っておきたい古都がある・344】