四千年の知恵(その18)
~酒を飲んで寝て、起きたら皇帝になっていた男~
趙匡胤。
後周皇帝の軍人で北宋の初代皇帝になった人。
色々とエピソードのある方である。
騎射が得意で、悪馬を馴らそうと勒を付けずに乗馬しようとしたものの、城門に頭をぶつけて落馬した。見ていた人は首が折れて死んでしまったかと思ったが、趙匡胤はすぐさま起き上がり、何事も無かったように馬を追いかけて行ったという。
かなりの石頭だったようだ。
さらに世宗の後唐征伐の最中、父親の趙弘殷が夜中に趙匡胤に城の開門を求めたが、「親子の関係といえども城門の開閉は公務である」と言い、城門を開けなかった。そして趙弘殷は朝になってようやく入城することができた。
このあたりも(比喩的に)かなりの石頭だったようだ。
王全斌が後蜀を滅ぼした際に降兵2万7千を虐殺し、蜀の財貨を奪うなどを行ったことを咎め、蜀征伐の功績にもかかわらず降格処分にした。
功績は功績。戦争犯罪は犯罪と厳しく峻別していた。
やっぱり石頭である。
宋の建国当初、しばしばお忍びで出かけたことをある臣下に諫められた。しかし懲りずに、ますますお忍びで出かけることが増えた。
さらに諌める者がいると、「自分は天子なのであるのだから、自分の好きなようにさせろ。お前に指図されるいわれはない」と言ったという。
このあたりも石頭かな。
「お忍びで出かける」なんて、何処に行ってたんでしょうね。
お酒を飲みに行っていた!
趙匡胤さんは大酒飲みだった。
飲んで飲んで飲みまくり、泥酔の挙句に昏睡し、起きたら皇帝になっていたのである。夢ではありません。
大酒飲みの軍人が酔い潰れて、起きたら皇帝になっていたのである。
キリスト暦959年、五代随一の名君とされる後周の柴栄(世宗)が急死し、当時7歳の皇太子柴宗訓(恭帝)が帝位に即いた。
しかし軍部を中心に幼少の皇帝を主君に仰ぐことへの不安の声がじわじわと上がり出し、一部からは成年の有力な皇帝を擁立すべしとの声が出始めていた。
翌960年、北方の大国・遼の軍勢が大挙して押し寄せてきたとの知らせを受けた後周の朝廷は、趙匡胤を国防の総帥に任じ、遼軍への対処を委ねた。
趙匡胤が陳橋に入り、いつものように深酒をして深夜に熟睡をしている時に異変が起こったのである。
かねてより幼君を主君に仰ぐことに不安を抱いていた軍人たちが、趙匡胤の弟・趙匡義を仲間に引き入れた上で、首都の開封に戻って恭帝に代わり皇帝になるよう趙匡胤に求めたのであった。
ホンマかいな?
ホンマです。
目覚めたら兵士に取り囲まれていた趙匡胤さんは「暗殺される!」と思った由。
でも、皇帝になってくださいと頼まれたのですね。
普通、クーデターというのは偉い人を殺すのだが、このクーデターは偉い人の地位に上げた。
恐らく他に例はないだろう。
もちろん、趙匡胤さんのほうにも異存はなかったのか、それとも二日酔いで頭が回らなかったのか、皇帝就任を引き受けた。
で、この趙匡胤さんなのだが、皇帝としては軍人出身なのに強引に力で押さえつけるようなことをせず、辛抱強い話し合いを基本にした。 趙匡胤の政治は万事がこのやり方で、無理押しをしなかったという。
趙匡胤さんは、前王朝の血統は根絶やしにするという、それまでの中国の常識に反してその血筋の者を大切に保護した。
それによって不要な叛乱の芽を断ち切るのと、「賓客」と厚遇されている柴氏(北周の王家)の存在をアピールする事で敵対国の投降を促す目論見があった。
負けたら殺されるのが常識であれば敵対国の君主は徹底的に交戦するが、負けても命が助かるうえに待遇も良いとなると、相手は「いっそのこと投降しちゃおかな」と白旗を上げてくれる。
事実、趙匡胤さんは降伏した国の王家の者は手厚く遇するのが常であった。約束を守ったのである。
これって、ひところお隣の国で持て囃された「太陽政策」か?
さらに趙匡胤さんは酒を武器にしたこともある。
各地方の防衛をするために置かれた役職である「節度使」が却って武力反乱の温床になっていたので、これを弱体化する必要があった。
そこで武力を使わず、行政上の強権も発動せず、どうやって相手を納得させたのか?
続きは来週。
【言っておきたい古都がある・358】