雨にも負けず 雲にも負けず わたしゃお多福御室の桜/仁和寺
青空の写真を手にできるのはいつのことやらと、御室詣は当分続きそうだと思っている。
「わたしゃお多福 御室の桜はなが低くても 人が好く」
「はな」は「花」と「鼻」をかけていることは説明は不要だったかも知れない。
今まさに満開見頃で、朝早くから毎日毎日御室詣で賑わう。
仁和寺街道を避けて、御室に向かうとよい。
お決まりの場所だ。
五重の塔との釣り合いをどう撮るかが問題で、自ずとシャッターを切る回数が増える。
このアングルの撮れる塀沿いの土手は黒山の人盛りである。
あなたのお好みは・・・
さて、どれだろうかか?
人盛りを避けると、三つ葉つつじの薄紫色や八重桜、枝垂桜が楽しめる。
また、仁和寺御殿の襖絵や庭園も広い縁を独り占めにしながら、じっくりと鑑賞できる時間が持てる。
筆頭門跡寺院仁和寺の寺紋は「桜」であることはご存知だったであろうか。
十六菊の紋章は門跡寺院を顕わすもので、寺紋ではない。
鬼瓦など境内建造物を注意深く眺めると、寺紋が「桜(二引きに桜)」であることが分かる。
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仁和寺(にんなじ)/
右京区御室(おむろ)にある真言宗御室派総本山の寺院である。
山号を大内山と称し、正式名称を旧御室御所跡仁和寺という。本尊は阿弥陀如来。開基は宇多天皇。
皇室とゆかりの深い寺で、出家後の宇多法皇が住まいしたことから「御室御所」(おむろごしょ)の別名がついている。仁和寺は光孝天皇の勅願で仁和2年(886年)に建て始められたが、同天皇は寺の完成を見ずに翌年崩御した。
遺志を引き継いだ宇多天皇によって、仁和4年(888年)に落成し、「西山御願寺」と称されたが、やがて年号をとって仁和寺と号した。宇多天皇は出家後、仁和寺伽藍の西南に「御室」(おむろ)と呼ばれる僧坊を建てて住まわれた。「御室」の旧跡地には現在、「仁和寺御殿」と称される御所風の建築群が建ち、国の史跡に指定されている。
仁和寺はその後も皇族や貴族の保護を受け、明治時代に至るまで、皇子や皇族が歴代の門跡(住職)を務め、門跡寺院の筆頭として仏教各宗を統括していた。
室町時代にはやや衰退し、応仁の乱(1467年-1477年)で伽藍は全焼した。
近世になって、寛永年間(1624年-1644年)、徳川幕府により伽藍が整備され、
また、寛永年間の皇居建て替えに伴い、旧皇居の紫宸殿、清涼殿、常御殿などが仁和寺に下賜され、境内に移築されている現在の金堂は旧紫宸殿である。伽藍
五重塔・金堂(国宝)-
慶長18年(1613年)に建立された旧皇居の正殿・紫宸殿を寛永年間(1624年-1644年)に移築・改造したもので、近世の寝殿造遺構として貴重である。宮殿から仏堂への用途変更に伴い、屋根を檜皮葺きから瓦葺きに変えるなどの改造が行われているが、宮殿建築の雰囲気をよく残している。御影堂(重文)-
旧皇居の清涼殿の用材を用いて建設したもの。宗祖空海を祀る。仁和寺御殿-
仁王門から中門に至る参道の西側に位置する仁和寺の本坊で、宇多法皇の御所があった辺りに建つ。宸殿は近世初期の皇居・常御殿を移築したものであったが、1887年(明治20年)に焼失。現在の建物は明治時代末~大正時代初期に亀岡末吉の設計により再建されたものだが、庭園とともにかつての宮殿風の雰囲気をただよわせている。遼廓亭(重文)-
江戸時代の画家・尾形光琳の屋敷から移築されたもので、葺下し屋根の下に袖壁を付け、その中ににじり口を開いているのが珍しい。
飛濤亭(重文)-江戸時代末期に光格天皇の好みで建てられた草庵風の茶席で、腰をかがめずに入れるように鴨居の高い貴人口が設けられている。
その他、五重塔、経蔵、九所明神社本殿、御影堂中門、観音堂、鐘楼、仁王門、中門、本坊表門(以上重文)などがあり、大部分は徳川家光の寄進で寛永年間に整備されたものである。