西陣の日蓮六山の桜たち / 本門佛立宗 宥清寺
北野天満宮の鳥居前の上京警察署の広道を南に下り、商店街に行き当たれば自ずから分る。
左手角地である。そのまま中立売をゆけば「長五郎餅」の本店だ。
つまり、北野下の森センター(市場)の東向かいである。
玄関の大きな三門から排他的なイメージも抱くが、遠慮なく参拝に臨めば拒まれることはない。
本堂と紅しだれの濃桃が見え隠れするので観賞させてもらい、本門佛立宗や日扇聖人のことを少しは知るとよい。
とても穏やかな陽射しを浴びた紅しだれの表情を見るにつけ、寺院の気風が覗えると思う。
排他的なものと、人見知りするものとが、すれ違ったままでは一向に何の関係も生まれない。
一歩踏み出すものがいれば、相互理解が始まる。この寺院ではそんなことを感じた。
次回は、本堂に上らせて貰うようにしてみたい。
宥清寺
〒602-8336 京都府京都市上京区一条通七本松西入滝ケ鼻町1005-1
075-463-4620
http://www.honmon-butsuryushu.or.jp/index.html
地図
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開導(かいどう)聖人。正しくは“本門佛立宗/開発教導・日扇(にっせん)聖人”は、文化十四年(1817)に京都で生まれます。幼名は大路(おおじ)仙二郎、文人としての雅号は長松清風(ながまつせいふう)、得度後は無貪(むとん)清風・日扇と名乗られました。
日扇聖人は29歳の時に本門法華宗に帰依(きえ)し、32歳で出家得度します。得度してからの十年は、旧弊(きゅうへい)で形式化した部分を残している教団と、これを正そうと試みる日扇聖人の間で何度か対立がくり返され、ついに39歳の時に教団と決別せざるを得なくなります。
教団に依(よ)ってではなく、信心に依って進むことを選んだ日扇聖人は、一般在家の人たちと法を行じていくため、41歳の時に、<本門佛立講>を開講し、集まった人たちの信心の深さに強い感銘を受けます。「三十年来の学文は、学文はいらぬというを学びたり。むかしの“信”の一字にかえりしが、学文なり。」
この自覚から、ひたすら題目口唱に専念する本門佛立講が出発するのですが、それはそのまま、“易行(いぎょう)”をつらぬいた日隆聖人に通じる道であり、“口唱専一”を説いた日蓮聖人に通じる道にもなっていきます。同じ時代に、“四民平等”を目指して明治維新をなしとげた人たちが、政治の力で階級制度の改革を実現できなかった歴史的事実を考えれば、僧と俗を問わずにひたすら信心を深めるという<お講>のあり方をつらぬいた日扇聖人の真意は、階級(カースト)制度の厳しいインドで絶対無差別の地平から法を説かれた、釈尊の真意に通じる道でもあったのでしょう。
「一念覚醒(いちねんかくせい)すればまことのすがた(真諦 しんたい)が判るのう。
生々世々(しょうじょうせせ)の菩薩行(ぼさつぎょう)は、また楽しからずや」
日扇聖人はそう言われ、明治23年の7月に入滅されます。
本門佛立宗HPより転載