祇園祭 鉾町の和菓子
稚児の結納の儀が滞りなく相整った六月を過ぎると、一日の「吉符入(きっぷいり)」を待つばかりである。
「どおや!」「どおどす」と、京の心意気を見せる祇園祭の始まりである。
それは実に一ヶ月間をかけての神事と祭典を繰り広げ、諸国の疫病を祓う祭なのである。
八坂神社の祭神スサノオノミコト(牛頭天王)の神霊をもてなす「神賑(かみにぎ)わい」は、山鉾やその巡行に止まらず、歌舞音曲の奉納や、屏風祭へと盛り上がる。
それにともない、町衆の知恵は鱧祭と呼ばれるまでの京料理を育み、祭柄の着物をこさえ、山鉾ゆかりの京菓子を作り、縁起物を産み出してきた。
こうして、七月の京の暮らしは祇園祭に塗りつぶされた一月となる。
祇園祭のこれらは日本の祭の典型のひとつであろう。
京都の菓子職人さんが祇園祭のために作るもので、美味しければ何だっていいのだが、鉾町に由来する祇園祭のお菓子を記しておきたくなった。
祇園祭にまつわるお菓子といえば、まず、三條若狭屋(中京区三条通堀川西入ル)の「祇園ちご餅」である。
「祇園ちご餅」は、大正時代の初め、稚児の世話をしていた三條若狭屋の主人が、稚児社参の折の振る舞い菓子をヒントに、甘く炊いた白みそを求肥で包み、竹串に刺し、氷餅の粉をまぶして考案した餅菓子である。
三條若狭屋の主人がヒントにした稚児社参の折の振る舞いの情緒を味わうなら、13日の稚児社参の日の二軒茶屋中村楼へ昼食の予約をされるとよい。
午前中に長刀鉾の生き稚児の社参がある。
南門で白馬から降りた稚児が強力に担がれ、八坂神社本殿での宣杖の儀(神の使いの資格を授かる儀式)を終えると、南門より出て中村楼に入る。
このとき、後を追うように入るもよし、中村楼の待合で出迎えるもよし。
稚児は中村楼の風呂で汗を流し浴衣に着替え直会(なおらい)の席に就く。
涼しげに昼食を取っていると、別室での稚児の着替えの様子や、直会の席の空気を感じ取れる。
注文して、運よく数が足りれば、中村楼の「稚児餅」をいただくことができる。
この稚児餅はその日百個限りで作られ、八坂神社に供物され賜ったものであるとは女将の話である。稚児社参にお供した人に振舞われてきたものなのである。
稚児社参の翌日より、同様の稚児餅が門前の甘味処で31日まで販売されているので、その機会に、粒の粗い塩辛めの味噌がつけられた餅をいただかれる手もある。
なかな乙な触感である。
その次を挙げると、占出山(うらでやま/中京区錦小路通烏丸西入ル)の「吉兆あゆ」である。
氏子町にある大極殿本舗(中京区高倉通四条上ル)の編み出した焼き菓子が使われている。薄く焼いたカステラ風の生地にもちもちとした求肥(ぎゅうひ)を包んだ調布(ちょうふ)と呼ばれる和菓子で、鮎の姿を象ったものである。
なぜ鮎の形をしているかといえば、占出山は、別名「鮎釣山(あゆつりやま)」と呼ばれ、日本書紀にある神功皇后(じんぐうこうごう)の「戦勝ならば直ちに魚をと祈願し、釣りで占ったところ、直ちに鮎が釣れる吉兆があった」、という故事に由来しているからである。
調布とは焼皮で求肥を巻いた生菓子で、涼夏を味わう京の夏菓子の代表ともいえる。
その姿が呉服の反物にみえたことから、祇園祭に室町筋の呉服屋さんがお客さまを招待した時のおもたせに重宝されたものである。
その昔の税制「租庸調」の調(献上布)に見立てて「調布」と名づけられた。調布は大極殿本舗・栖園(中京区六角通高倉東入ル)で1日から17日前後まで予約販売され、
鉾の屋根の上にある緋色の羅紗布を象った「鉾調布」は太子山(下京区油小路通仏光寺下る)と、氏子町の京菓子司亀屋良長(下京区四条通堀川東入ル)で販売されている。
亀屋良長は祇園祭菓子を引き受けるかのように、店先に湧き出るなめらかな舌触りの京の名水「醒ヶ井水(さめがいすい)」を使って、粽・だんご・干菓子などの祇園祭限定商品を作っている。
中でも、白みそ入り薄紅色の漉し餡を求肥で包み、氷餅をまぶした「宵山だんご」は、月鉾(下京区四条通室町西入)や四条傘鉾(下京区四条通西洞院西入)で、宵山の三日間販売され、自店と市内百貨店でも一足先に販売される商魂が現代的で逞しい。
パッケージの中には厄除け招福の紙も添えられている。
また、2006年に黒主山(中京区室町通三条下ル)とで販売された食べられる祇園祭粽の「ちまき麩」は、本数限定販売に長蛇の行列で、即完売と話題をさらっている。
黒糖であっさりと味付けした生麩を笹の葉で包んであるものだが、堀川四条の店先へに行けば(7/7~7/17)手に入れることができる。
それに比べると、かつて店のあった役行者山に供えられ、宵山の一日だけ販売される無病息災を願う菓子「行者餅」を、柏屋光貞(東山区東大路通松原上ル)で手に入れる方が有り難味を感じる。
1806年に京都に疫病が流行した時、柏屋の先代が大峰山回峰修行中に、「行者の衣に象った菓子を作って、祇園祭の役行者山にお供えし知人縁者に配れば、そのものは疫病から免れる」とのお告げから作り出され、脈々と守られてきた歴史を持つ厄除け餅である。
行者餅は、薄く焼いた生地の餅の上に、粉山椒を混ぜた白味噌を塗り、折り畳んで行者の篠懸(すずかけ)の形に似せられている。
一方、自然体で一年中手に入る献上菓子もある。祇園祭の菊水鉾の茶席に使われる定番菓子として、1970年に作られた琥珀羹(こはくかん)「したたり」がそれである。
銘は鉾の伝説で、菊からしたたる露を飲み長寿を保ったといわれる菊慈童に因んでつけられた。それまでは季節の生菓子が年毎に選ばれていたそうである。
その後、「茶席だけでしか味わえないのはもったいない、ぜひ店頭でも」という声が高まり、店売りされるようになったのである。
ずっしりとした重さに琥珀色の寒天の透明度、更に、ツルンと口に入ったかと思うとすぐさま黒糖の甘さが広がり、舌の一面にゆっくり溶けていく食感はたまらない美味さである。
「したたり」は氏子町の亀廣永(中京区高倉通蛸薬師上ル)に出向くと誰にでも分けてくれる。
祇園祭に因んだ八坂神社の焼印や、鉾を象った和菓子や京菓子は数え切れない位にある。
それが季節限定となると、一ヶ月もある祇園祭に昼夜日替わりにいただいても到底食べきれない。となれば、毎年毎年選択せざるを得ない。いったい何年かかるだろうか。
いずれの菓子も美味いことは請け合いとすれば、その成り立ちとあり様と販売の品格が、選ぶ人に問われるのだろうか。
その志向の大勢は、その時代の文化を表すことになるのであろう。