今宮祭
今宮祭の神幸祭が5月5日行われ、
5月6日に湯立祭、5月11日の還幸祭まで西陣はお祭りである。
昔はこの剣鉾を腰の差し袋で支えて、「剣差し」で巡幸されていた。
獅子に八乙女列に御矢、御弓などが続く。沿道のこどもが獅子に頭を噛んで貰っている。
牛車一台に牛が二頭。控えの牛を連れての巡幸である。
葵祭同等の設えに西陣の町衆の気概を感じさせられた。
昨今は牛の人形での行列を目にすることもあるのに。
神輿に移られた神様は、人間の作った車社会文明を、どうご覧になっているのだろうか。
神輿が先か、車が先か。
信号機の示すルールに従うのも安全とお考えなのかも知れない。
人は今の自分に都合よく考える気質を備えているようである。
この祭礼は、中世まで永らく官祭として営まれたが、近衛天皇の久寿元年(1154)四月、
「夜須礼(やすらい)」での今宮詣が余り華美に過ぎるということで禁止され、
それとともに今宮の祭礼の方も衰えていったという。
それから百年余りを経た正元元年(1259)には、
「百錬抄」によると祭礼を興し馬長を献ずる礼があったと記されてあり、
この頃から再び復活をみている。
メルマガ「京都電脳新聞」 コラム”京に癒されて” も合わせてお読みください。
→→→→→→→→→→→→無料定期購読受付中←←←←←←←←←←←←
今宮神社メモ /
今宮神社 祭神と創始由来 転載 (http://www.kyoto-jinjacho.or.jp/shrine/03/019/index.html)【本社】中御座 : 大己貴命(おおなむちのみこと)
東御座 : 事代主命(ことしろぬしのみこと)
西御座 : 奇稲田姫命(くしなだひめのみこと)【摂社】
疫 社 : 素盞鳴命(すさのをのみこと)
当社地には平安建都以前より疫神(えきしん)を祀る社があったといわれる。建都ののち平安京が都市として栄える一方で、人々はうち続く疫病や災厄に悩まされ、これを鎮めるため神泉苑、御霊社、祗園社など各地で盛んに御霊会(ごりょうえ)が営まれた。
今宮社の紫野御霊会もその一つである。すなわち、一条天皇の御代正暦五年(994)六月、当社地の疫神を二基の神輿に齋いこめて船岡山に安置し、神慮を慰め奉って悪疫退散を祈った。これが紫野御霊会であり今宮祭の起源である。
そしてこの時、京中の老若男女は挙って神輿に供をし船岡山へ登り、綾傘に風流を施し囃子に合わせて唱い踊り、病魔のよれる人形を難波江に流したといわれる。これが夜須礼(やすらい祭)である。長保三年(1001)ご霊夢によって疫神は船岡山から再び現在の当社地に奉遷され、新たに設けられた神殿三宇ともども今宮社と名づけられた。
これが今宮神社の起源である。創祀以来朝野の崇敬を集め、とりわけ徳川綱吉公生母桂昌院の崇敬は西陣への愛郷の念とともに厚く、元禄七年(1694)には荒廃していた社殿の造営など大いに務められ、祭礼も往時のような盛況を取り戻したと伝えられる。明治二十九年本社殿を焼失したが、同三十五年に再建し、その後も西陣をはじめ多くの人々の崇敬を集めている。