魯山人の光と影
玄人裸足に制覇した美食家の傲慢
「魯山人は京都生まれの方だったんですね。」と、メールを貰った。
鎌倉生まれの美食家だと思われていたようだ。意外に多い錯覚かも知れない。
すぐさま、「北大路の姓がついているから京都人です。」と返信した。
余りに素っ気なく乱暴と思わないでもない。
しかしながら、「北大路」の名をわざわざ名乗った以上、魯山人の深層心理の中に、京都への哀愁とその出生に拘りを持つものがあったと、小生は考える。
だから、敢て京都生まれ、京都人の誇りと強調したい。
京都で生まれ各地を歩き、東京で一躍有名になり、ロックフェラー財団の手で世界に羽ばたくことになった魯山人は、波乱万丈に満ちた76年間の人生を閉じて、半世紀前より京都西賀茂の西方寺に安らかに眠っている。
彼を一躍有名したのは、大正14年(1925)東京麹町に、美食の殿堂「星岡茶寮(ほしがおかさりょう)」が開店したことに始まる。ここで総合演出顧問兼料理長として、持ち前の粋を遺憾なく発揮したのが魯山人であった。
たちまち評判は評判を呼び、各界の名だたる傑物が集まりだしたのだ。
粋人の集まる文化サロンと化した場では、料理ばかりか、その器、絵画、書、陶磁器などが人気を博していた。彼は鎌倉の山崎に、世が昭和となると同時に「星岡窯」を開き、ここで自らが焼いた陶磁器を勿論「星岡茶寮」に使っていた。
どこの流派にも属さない魯山人の異才は、独自性の高い作品を生みだし、粋人達の目を虜にしたのである。
絶大な評価を思うがままに得た魯山人は更に月刊誌「星岡」を出版し、彼を認めない既存芸術文化界を罵倒する書評を展開し、頭に乗り墓穴を掘ることになる。
彼の傲慢さもここまでと、昭和11年独断場であった「星岡茶寮」をパートナー中村竹四郎の手で追い出された。
しかし、彼は反省するようなことはなかった。
そんな彼の人物像について、自らの美に取りつかれ追及する穢(けが)れなき芸術観が彷彿としているとする者と、傲慢で野蛮で邪道とする者と、意見が分かれるところである。同様の評価は彼の作品にもなされている。これも時代の価値観に左右されていくものだろう。
生涯を自由奔放に生きた魯山人が羨ましい限りだが、折角の出会いに喧嘩別れを繰り返す魯山人に歯がゆさを抑えきれない。
文人粋人の集った「星岡茶寮」が昭和20年空襲で全焼した翌年、つまり「星岡茶寮」を追い出されて10年後の魯山人は、銀座5丁目に魯山人工芸処「火土火土美房」を開き、鎌倉山崎の窯場を「魯山人雅陶研究所」とした。この10年間は「雅美生活」を創刊(1938)し、専ら漆器制作(1942)の修行に専念していたという。
それから5年後の昭和26年(1951)にはパリのチェルヌスキー美術館で開催された「現代日本陶芸展」に出品し、更に3年後にはロックフェラー財団の招聘によりニューヨーク近代美術館にて「魯山人展」が開催された。
「器は料理の着物」と言い放った彼の陶芸の匠技が、美術館に並ぶ芸術品となったのである。
そして、翌昭和30年日本においても、重要無形文化財の指定を受けたが、固く辞退するのである。
それより51年前、書道家として歩み出し名を馳せたとき(当時21歳)から、絵画、陶器、磁器、金工、漆器などを流派に属さず好き勝手に修行し、骨董屋が美食道楽に明け暮れた勲章の筈なのだが。
世に極めた職人のことを玄人(くろうと)と表現する。素人(しろうと)の趣味人が、次々と玄人裸足に征覇していく、魯山人とはそんな男ということになる。
このパワーはどこから生まれたのだろうか。京都での出生に秘密の一端があるように思うのだ。(続)
北大路魯山人資料室
http://www5e.biglobe.ne.jp/~modern/index.htm
今なぜ北大路魯山人か?
http://www.seimiya.co.jp/rosanjin/rosanjin_riyuu.htm