木食正禅上人と洛陽六阿弥陀めぐり
在家にて現世利益、往生安楽の功徳を受くるありがたさ
洛陽六阿弥陀巡拝(らくようろくあみだめぐり)を正月15日に始め、月詣りを重ねると六阿弥陀巡りは師走24日で年内は終いとなる。
月々の参詣日は各々定められており、怠らず行えば三年三ヶ月で満願を迎える。
行じた者の身は、無病息災・家運隆盛・祈願成就、その功徳を受けること真に高く大なりと、また有縁無縁の精霊の追善回向を行えば、往生安楽が叶えられること必定と説いている。
説いた人は、京都を活躍の場として念仏信仰に生き、それを社会事業として具現化した市の聖、木食正禅養阿上人(もくじきしょうぜんようあしょうにん/1687〜1763年)である。
その京洛六ヶ所の霊場札所とした阿弥陀如来とはどこの寺院であろうか。
日本三如来といえば、洛東神楽岡の真如堂(真正極楽寺)、長野の善光寺、嵯峨の清涼寺である。
洛陽六阿弥陀巡拝は、日本三如来のひとつ真如堂を第一番に参り、「京洛六阿弥陀巡拝の証」に蓮華の朱印を受け、順に、永観堂、清水寺阿弥陀堂、安祥院、安養寺と阿弥陀仏を拝み、誓願寺にて結願する。
他方江戸六阿弥陀詣の場合は、行基菩薩が一夜の内に一本の木から六体の阿弥陀仏を刻み上げ、長者が建立した六ヶ所の寺院に安置された六体の阿弥陀仏をお参りする。小野篁(おのたかむら)の刻んだ地蔵尊を参る京都の六地蔵めぐりと同じである。
一方洛陽六阿弥陀巡拝は、江戸時代中期1717年、第4番霊場の安祥院を開基した大阿闍梨の木食正禅上人が阿弥陀仏の霊感をうけ発願したもので、月ごとに違う功徳日に、「うなずきの阿弥陀」「みかえり阿弥陀」「恵心僧都作の阿弥陀」「逆蓮華(さかれんげ)の阿弥陀」「木食正禅作の阿弥陀」「五臓六腑をもつ阿弥陀」を巡るものである。普段非公開の阿弥陀仏もこの日は開帳されている。赴けば往生安楽の一歩が見出せるかもしれない。
真如堂の本尊「うなずきの阿弥陀」は、戒算上人が永観2年(984年)延暦寺の常行堂に安置された慈覚大師作の阿弥陀如来像を神楽岡に移し、開創したときより真如堂に鎮座している。
その阿弥陀は、慈覚大師が「比叡山の修行僧のための本尊になって下さい」と眉間に白毫(びゃくごう)を入れようとすると、首を振って拒否され、「それでは都に下って、すべての人々をお救い下さい。特に女の人をお救い下さい」と言われると、如来がうなづかれたところから、「うなづきの弥陀」と呼ばれたという伝説を持つ。
永観2年の春、真如堂開祖戒算上人の夢枕に立った阿弥陀仏の化身である老僧は、「我は叡山の常行堂より参った。京に出てすべての者に利益を施すであろう。わけても女人を済度するものである。急いで京に下山させるべし」、と戒算上人に告げ、「神楽岡のあたりに、小さな桧千本が一晩のうちに生えた場所がある。そここそ仏法有縁の地であり、衆生済度の場である。まさしく末法の世に、真正極楽の霊地なるぞ」と告げられたと伝説は続く。
その真如堂を洛陽六阿弥陀巡拝の一番に挙げられた木食正禅上人は、享保4年(1719年)8月、自らが造立に関わった阿弥陀如来座像を真如堂本堂の南右横に勧進していた。
その銅製座像が乗せられた蓮弁の石造台座には、「木食正禅造立」の文字が大きく刻まれ、銅仏の背には「寒夜三十日念佛修行例年墓回り成就廻向佛併書寫大乗妙典血經一部御内服納之 木食正禅造立 享保四巳亥歳八月十五日 弟子 蓮入朋真願真」と刻まれている。
本堂の阿弥陀如来に止まることなく、この露天にある阿弥陀如来に気づけば、否気づかなくとも是非参って貰いたい。六阿弥陀巡りの発願者の造立した阿弥陀様なのである。
さて、六阿弥陀仏それぞれの伝説や由来、逸話を記すには紙幅が足りず後日に譲るとして、その洛陽六阿弥陀仏巡洋を霊場とした木食正禅上人の足跡に触れてみたい。
木食正禅上人の木食とは、出家した後に「木食戒」に生きる僧で、米、畑地ものを食べずに木の実や山菜だけを食べて修行する僧のことを指すようだ。
「木食戒」は、五穀あるいは十穀を断ち、山菜や生の木の実しか口にしないという戒律で、木食上人と呼ばれた僧は他にもおられ、方広寺大仏殿を監修した木喰応其(もくじきおうご)上人は豊臣秀吉に重用され、高野山の復興など高名を残している。
一方、木食正禅上人は、泉涌寺雲龍院にて四宗(天台、真言、禅宗、浄土)兼学をなし、大衆の教化には念仏が一番ふさわしいと考えて七条大宮に庵を設け、衣の裾を短く掲げ素足に草鞋姿、笠を被り鉦をぶら下げ、「南無阿弥陀仏」を唱えて街を念仏行脚する念仏聖の行を実践していた。
また、洛中・洛外にあった無縁墓地や刑場近くにある墓地など、一般の僧侶が敬遠した重罪無縁、不遇の人々の亡霊を回向するための寒夜墓参りを3年間続け、供養のため「南無阿弥陀佛」の碑を建立されていた。
そのことは「苦沙彌のインターネット僧坊」で知った。
その碑がどこにあるのか・・・、見覚えのある碑の写真が掲載されていた。
出かけずには居られなくなった。蹴上から九条山を越えて日ノ岡に出た左手の三角地である。
九条山を越えたところに遷都以来明治までの間、京都で最大の粟田口の首切り場があったと聞くが、極刑場で落とされた首が九条山から日ノ岡辺りに転がっていたのだろうか。
数えられないぐらいに碑の前の三条通を車で走っているが、下車し立ち止ったことが一度も無い場所である。
名号碑の前に立つと流石に碑も名号の文字も大きく、驚かされる。
四メートルもあったというから、身長の倍以上の高さである。よく見ると、その碑は真ん中あたりで接がれていることに気がつく。更に高いものだったことになる。碑の後ろには、「京津国道工事ニ於ケル犠牲者ノ為ニ 昭和八年三月」と刻まれていたが、木食正禅上人の建立した石碑を流用したものだという。
元は、「南無阿弥陀佛木食正禅 粟田口寒念佛墓廻回向 享保二丁酉七月十五日」と刻まれていたそうである。明治の廃仏毀釈によって石碑は切断され道路の溝蓋などに流用されていたようで、後に上半分が地中より見つかり、下半分が補修され現在建っているのである。石碑の地肌の色の違いや石肌に残る傷、彫りの深さの違いが、それを示していた。
更に復元が行われていると聞くが、元の高さに戻る日が待ち遠しい。
因みに、この名号碑の下は地下鉄京阪電車が今は走っている。
建立の翌年、木食正禅上人は一乗寺の狸谷の石の洞屈に17年間籠もられたが、上人を慕う民衆が山に登り病気平癒の加持祈祷を受けていたと、狸谷不動尊で聞いたことを覚えている。
その三角地から程近い旧三条通の街道傍(旧東海道)に木食正禅上人縁の梅香庵跡があるので立ち寄ることにした。酔芙蓉の寺で知られる大乗寺の横である。
元文3年(1738年)、木食正禅上人が心血を注いだ東海道日ノ岡峠改修工事の際、人足寄場として建てた梅香庵址に、そこで掘り当てた井戸水を亀の口より落として石水鉢に受け、日ノ岡峠越えの旅人の喉を潤したと伝える「亀の水不動尊」があった。
石室の不動尊の前に座っている亀の口からは湧き水がちょろちょろと今も流れ、説明板には、「・・・牛馬の渇きを癒すと共に、道往く旅人に湯茶を接待していました。上人は晩年養阿と改名し、宝暦13年(1763)、76才でこの地に示寂し、東山五条坂の安祥院に葬られました。」とあった。
心あらぬものの仕業か、粗末な祠の「亀の水不動尊」にあった銘文の刻まれた石の竃は今はなく、東京都内に現存しているという。
生涯に亘り、私欲や高名を望まず、民衆の往生に尽くした市の聖木食正禅上人の日々の姿が止め処なく浮かんできた。
洛陽六阿弥陀めぐり
https://kanko.city.kyoto.lg.jp/travelroute.php?InforKindCode=7&ManageCode=3000007
苦沙彌のインターネット僧坊
http://kusyami.com/index.html