平清盛 縁の地をゆくその四 安楽寿院
これぞ骨肉相争うが如しの喩え
平安後期の院政は、白河法皇、鳥羽法皇、後白河法皇で幕を閉じるのであるが、平家が台頭するのは、鳥羽法皇崩御後の後白河院の時代である。
その台頭のきっかけは、1156年7月2日鳥羽法皇の崩御であり、それに伴う保元の乱の勃発だったといえる。
保元の乱は、崇徳上皇と後白河天皇の戦いで、平安時代終章の幕開けを告げるものである。
鳥羽法皇より崩御の後を託されていた美福門院得子と関白藤原忠通は、後白河天皇に忠義を誓っていた北面の武士、源義朝や平清盛らを呼び集め、後白河の内裏高松殿の警備をさせた。
崩御の翌7月3日、崇徳上皇側に不穏な動きがあるとの噂を察知した後白河天皇は、先手を打って鳥羽田中殿などおぼしき集結場所を押えた。
しかし、7月5日頃より、崇徳上皇側の白河殿に次々と兵が集まり、10日夕刻には壱千余騎に達したといわれる。
その中には、藤原頼長の武士となっていた源為義(義朝の父)、為朝父子や、清盛の叔父にあたる平忠正らも参じていたのである。
つまり、皇室の内紛であり、摂関家の内紛であり、それぞれの派閥に属していた源平の武士達も、一門を分かつ源平入り乱れての骨肉の争いだったのだ。
7月11日未明、二条大路を進む後白河天皇軍の義朝や清盛は、機先を制して崇徳上皇軍の白河北殿を急襲。不意を突かれた崇徳側は為す術なく、午前8時頃には保元の乱は終戦したのである。
保元物語(現代語訳)の上巻・第十五章を引用すると、
「・・・義朝は、使者を内裏へと参上させて、
『夜中に勝負を決しようと、もみ合って攻めておりますが、敵も堅く防いで破るのは難しくございます。今は火を放つよりほかには、手立てはないように思われます。とはいえ法勝寺なども風下にございますので、伽藍が燃亡することにもなりかねますまい。このことは勅命にお任せいたします』と、申し上げられたので、
少納言入道(信西)が承って、
『義朝は本当に殊勝である。とはいえ主上が主上でいらっしゃれば、法勝寺くらいの伽藍は、即時に再建なされよう。決して畏れてはならない。ひたすら急速に、兇徒誅戮(きょうとちゅうりく)のはかりごとをめぐらせ』とご命令なさったので、
仙洞御所(白河北院)から西にある藤中納言家成卿の宿所に火を放ったので、西風が激しい時でもあり、即座に御所へと猛火がおびただしく吹きかけたので、院中の上臈女房(じょうろうにょうぼう)や、女童たちが方途を失って、呼び叫んで混乱するので、(院方の)武士もこれが足手まといになって、進退がまったく自由がきかず、(御所から)落ち行く人の様子は、峯の嵐にさらわれた、冬の木の葉と違うところがなかった。」とある。
こうして、崇徳上皇らは落ち延びたが、左大臣藤原頼長は戦死、源為義・平忠正は処刑、源為朝は伊豆大島に流された後自害。そして崇徳上皇も讃岐に流刑となった。
ではなぜ、崇徳上皇は後白河天皇に対しクーデターを起こしたのだろうか。
鳥羽法皇の崩御の前年7月23日、病に伏していた近衛天皇が17歳で崩御、後白河天皇が即位した。
崇徳上皇にすれば、譲位を父鳥羽に命ぜられ、己が第一皇子重仁親王の天皇即位が叶わず、鳥羽上皇第八皇子だった近衛天皇の即位へと、執り運ばれたのである。
その不合理なことの上に、皇子のいない近衛天皇崩御のあとは、鳥羽法皇と后美福門院得子の養子となった重仁親王の天皇即位かと思いきや、その願いも叶わなかった。
鳥羽上皇と先の后待賢門院璋子の第四皇子だった後白河天皇の即位となったのである。崇徳上皇にすればニ度までも煮え湯を飲まされ、蔑(ないがし)ろにされたわけだ。
崇徳上皇を鳥羽法皇の叔父子とすると、鳥羽法皇は祖父白河法皇への復讐の手を、叔父子の崇徳上皇へと一途に向けられたといえる。
そんな父鳥羽法皇の崩御となれば、崇徳上皇が謀反の狼煙をあげることに同情同調する者は、上下貴賎を問わず少なくなかったのであろう。
因みに、崇徳と後白河は待賢門院璋子を母とする同母兄弟で、頼長と忠通は摂関家藤原忠実を父とする異母兄弟で、為朝と義朝は源氏の棟梁源為義を父とする異母兄弟で、忠正と清盛は平氏の棟梁平忠盛の弟と子である。
愛憎の刻む凄まじい権力闘争の構図ではないか。
その因子は院政を敷いた白河であり、孫鳥羽法皇なのである。
その白河法皇と鳥羽法皇の院政の地を記す石碑が鳥羽離宮跡に建っているというので、出かけることにした。
鳥羽離宮は、現在の南区上鳥羽、伏見区竹田、中島、下鳥羽一帯に及ぶ広大なエリアで、その北東の一角に「安楽寿院」があり、隣接して天皇陵が残されているところで、当時の断片を偲べる唯一の場所なのである。
新城南宮道を城南宮より東へ向かい、油小路通と近鉄京都線とで囲まれた界隈一体が、鳥羽離宮の東殿のあったところのようだ。
寺伝によると、往時は、
「南に池が広がり、水鳥が群れる風光明媚な地で、その池の畔に離宮が造られ、技術の粋を尽くした御殿が建ち並び美を競っていたといいます。当時栄華を誇った貴族たちは連日のようにこの地を訪れ、舟遊びや歌合わせなどに興じ、華やかな貴族文化の舞台になっていました。この鳥羽離宮の東殿に保延3年(1137年)御堂が建てられました。これが安楽寿院です。
安楽寿院はその名前のとおり、浄土教に基づき極楽浄土を希求するため阿弥陀三尊を本尊さまとしました。その後、本御塔、九躰阿弥陀堂、閻魔堂、不動堂、新御塔が次々落慶し一応の完成を見ました。
当時の寺領は膨大なもので今の茨城県から九州の間に散在し、最盛期には32国63ヶ荘に及んでいました。」とある。
真言宗智山派安楽寿院の大きな石碑を見つけた。山門の中に見える書院造りの庫裏は元々「前松院」という塔頭寺院であったという。
院政期ゆかりの安楽寿院の伽藍の大部分は近世以降に再建されたものだというが、安楽寿院の本尊阿弥陀如来座像は、鳥羽法皇の時代より祀り、守られてきたものだ。
その阿弥陀座像に関し、
「白河上皇が洛南に造営を始めた鳥羽殿は、のち鳥羽上皇が壮大な離宮として完成させた。鳥羽上皇により離宮の東端に建てられた安楽寿院は鳥羽東殿と称され、保延三年(1137)供養され、続いて塔(二基)、九体阿弥陀堂、不動堂などが建立された。
本像は二基あった塔のうち保延五年(1139)に建てられ、のち鳥羽上皇(保元元年、西暦1156年崩御)の遺骨を葬った三重塔の本尊と推定されるものである。
造立仏師に関しては、鳥羽御堂全体の造仏を円派仏師が主に担当していたことから考えて、賢円、長円などが想定される。面長となる顔や数多く配された衣文などに、定朝仏の直模ではない独自性が見られ、この時期の円派仏師の作風を窺うまたとない遺品である。」と、京都国立博物館発行「院政期の仏像」には記されているそうだ。
ワクワクしながら、安楽寿院を基点に周辺をくまなく歩くことにした。
寺院の南には多宝塔が建ち、「近衛天皇安楽寿院南陵」とあり、その間の石畳を進むと右手に伽藍が続き、「白河法皇・鳥羽法皇院政地」と刻まれた石標を見つけた。
石標の前の囲まれた一角に「本御塔」が立てられ、鳥羽離宮跡の発掘調査で出土した石を集め庭園風に展示にされ、院政の終焉とともに姿を消した面影を伝えていた。
その西には、「鳥羽天皇安楽寿院陵」があった。
一体どんな思いでこの地に眠っておられるのだろうか知る由もないが、ひたすら歩くことにした。