祇園祭 山鉾のほんとの巡行
大トリ鉾の復活で明日の日本に力を蘇らせる
今年2011年の山鉾の懸装品の復元新調が報じられている。
月鉾保存会は18世紀に作られた絨毯の胴掛の左面を復元新調し、ジェイアール京都伊勢丹で26日に披露し、そのあと12日の曳初(ひきぞ)め以降、鉾に飾る予定となっている。
月鉾の胴掛は天保6年(1835年)から飾っていたとの記録があり、少なくとも18世紀にインドや中東で作られた絨毯だったようである。新調された絨毯は、渋みのある赤や青の地に草花が規則正しく織り込まれ再現されている。
また、橋弁慶山保存会では、約200年ぶりに胴掛「加茂葵祭行列図」の右面を復元新調し、これで4年がかりで進められた両面の制作が完了し、今年から両面揃っての新調の胴掛が巡行で見られる。
元の胴掛は文化6年(1809年)に作られたもので、警護の役人や牛車が連なる優雅な行列が上賀茂神社に到着する様子を綴れ織で緻密に描かれていた。
そして、南観音山保存会では、新調の後掛と山鉾の四隅に吊り下げる金糸大房を110年ぶりに復元新調した。
新調の後掛はイランの真珠織で織られた、草色で涼しげな色使いのペルシャ絨毯で、「中東連花水辺に魚文様」と題されている。
元来、後掛は鉾の見送の下に掛けられ、巡行の時は観客の目には触れないものであるが、新調した今年だけは前掛として使いお披露目される。二度と見られない南観音山の巡行姿になるやもしれない。
更に、放下鉾保存会は、劣化退色した彩雲の天井幕を、実に華やかな天井幕に新調したという。柴田是真の描いた紅梅、緋牡丹、桜、水仙、桔梗などの明治宮殿「千種之間」用の下絵から、242色の糸をもって綴れ織にて描きだしたようだ。
14日から宵山までの間、放下鉾の会所で一般披露される予定である。
昨2010年に懸装品の復元新調がされたのは、鶏鉾・鯉山・霰天神(あられてんじん)山・四条傘鉾・役行者(えんのぎょうじゃ)山・孟宗(もうそう)山などである。
近年、退色劣化や傷みが激しく復元新調を強いられているのは、山鉾に取り付けされてから200年前後のもののようだ。
つまり、江戸時代の文化・文政年間(1800年代初頭)に取り付けられたタペストリーや絨毯などである。
祇園祭の巡行を維持するだけでも大変なことである。それは労力も経済力も、そして何よりの熱い思いがなければ為しえられるものではない。
その上に、懸想品の修復、新調となれば尚更のことである。
各種の補助金のほかは、唯一、宵山などで授与される粽やグッズの収入が頼りになるわけなので、宵山見物の折には奮発してご近所の分まで、お土産代わりに求めていただきたい。
そうして、隣り合う鉾町間の切磋琢磨が育まれ、動く美術館山鉾を守り継ぎ、京の町衆の精神が後世に伝えられるというものである。
元来、山鉾巡行は前祭と後祭の両方にあったことはご存知だろう。
45年前の昭和41年(1996年)より、市の方針や交通事情などのため前祭に統一され合同巡行することに変わり、後祭の巡行がなくなり、花笠巡行の始まりとなった経緯がある。
現在の前祭17日の山鉾巡行を観覧されればお気づきの通り、山鉾巡行の前半23基のあと、「後祭」の幟が先導し、北観音山、橋弁慶山、役行者(えんのぎょうじゃ)山、八幡山、黒主山、鈴鹿山、浄妙山、鯉山、南観音山(順不同)の九つの山が続いている。
祇園祭の山鉾巡行を本来の姿に戻すべきだとの声は以前からあったが、今年になって、1月京都市長の後祭の復活支援の表明に始まり、祇園祭山鉾連合会はやっと「後祭巡行検討部会」を発足させ、「早ければ3年後の平成26年に復活させたい」と山鉾連合会理事長の談話が5月25日に発表された。
俄かに、鉾町は熱くなって当然である。
昨夏、「休み山」の大船(おおふね)鉾は復興計画を決めた。
大船鉾といえば、幕末まで後祭のトリを務めた鉾である。
同年9月、「祇園祭の山鉾行事」がユネスコ無形文化遺産に登録された。
休み山は大船鉾だけではない。布袋山、鷹山も復興へ期待が高まって当然のことである。
鉾町の総意と人財と復興財源が見通せれば、山鉾連合会の空席の評議員席を埋め、鉾町35町揃って、往時の祇園祭を迎えることができるからである。
大船鉾の復興を計画することは命賭けの大決断であったに違いない。
大船鉾の鉾町四条町では不文律の掟があったという。
「復興を決して言葉にしてはならない。鉾の復興を口にすれば、孫の代まで恨まれる」と、そう言い習わされてきたらしい。
復興への道のりは険しいが、140年続いた掟を破った男たちがいた。
四条町大船鉾保存会の松居米三理事長は、昨年の「くじ取り式」の席上にオブザーバーとして座った。
町内の佐々木定寿さんは、祇園囃子を鳴らして町内に居祭りを復活させた。
それでも、町内では復興派は少数で、逆風の中での夢物語を一歩づつ地道に形にしていったと聞く。
くじ取らずのトリを務めるほどの大船鉾は、現在巡行する船鉾より一回りも大きい、名の通りの巨大鉾であったことが判明しているようだ。
町の絆と将来を託された大船鉾の完全復興が待ち遠しくて仕様がない。
現代生活の必要上から変更された後祭の形は、現代生活に不便が出ようとも、今、元の形に戻す潔さが望まれるときである。
3年後の平成26年後祭の復興が叶うなら、大船鉾の復興巡行が叶うことが必須条件だと思う。
四条町大船鉾保存会だけの問題ではない、山鉾連合会の課題であり、京都市民、否、日本の復興のためにも、現代の疫病を追い祓い、明日の日本に生きる力を蘇らせる時なのである。
疫病をこの世から退散させる願いを一にする祇園祭が今こそ必要なときである。