愛宕古道街道灯し
ライトアップでは照らせない奥嵯峨の素顔
「あたご ふるみちかいどう とぼし」と読む。
この名付け親は、愛宕神社「一の鳥居」の茶屋平野屋さんの大女将だと聞く。
「灯す」ことを京都では「とぼす」と発音し、明かりを点けたり、火を灯したりすることを、「とぼす」という。
嵯峨野保勝会が主催する「愛宕古道街道灯し」は、1996年に始まったものだが、すっかり奥嵯峨の夏の風物詩となった。
こんなにも大事に日本の風情を残してくれている場所で、その心をも感じさせてくれるコミュニティは他地域にはないように思う。
そして、その地域の人たちの善意が一つになって、幻想的な地蔵盆の夜を創りあげているのが「愛宕古道街道灯し」なのである。
まるで、千年を超える歴史を持つ歳時のようで、きっと、化野に念仏寺が創建された頃よりあったに違いないと思えてしまう。
その場所は、清涼寺から愛宕神社一の鳥居まで、旧愛宕街道の沿道約2キロである。
祇王寺より化野念仏寺を経て愛宕神社一之鳥居に至る愛宕街道沿いの集落が嵯峨鳥居本で、17世紀頃から愛宕神社の門前町として発達し、周辺の美しい自然を背景に伝統的な民家や、茅葺屋根、歴史ある社寺が今も並んでいる。
その鳥居本の愛宕街道に沿った長さ約600m、面積約2.6ヘクタールの地域を、京都市は昭54年(1979年)、伝統的建造物群保存地区に指定している。
化野念仏寺を境として上地区と下地区に分けられ、愛宕神社の一の鳥居に近い上地区は主として茅葺屋根の農家風、下地区は町家風の建物が建ち並び、優れた日本の景観を残している。建造物の大部分は江戸時代末期から明治にかけて建てられたものと聞く。
見事にすっきりとした街並みは、電線類が地中に埋設され電信柱か一本もないからである。どうりで提灯や灯籠や行灯がよく似合う筈である。
古き時代より貴人たちに隠棲の地として好まれた嵯峨野であるが、鳥居本には現在、瀬戸内寂聴さんが自坊・寂庵を構えられている。大覚寺に続く行灯の置かれた道路のわき道に入ると寂庵がある。
愛宕古道街道灯しの時には、多忙な上に高齢にも関わらず、町内会の一員として皆さんと一緒になって奉仕されていた。
鳥居本の街道灯しに足を運ぶたびに感じることがある。
それは純で真心のある灯りだと思う。人々の暖かさが伝わってくるのである。
街道に穢れなき空気が流れている。まさに鎮魂の灯りといって憚らない。
それは何もかもが市民の手づくりだからこそであろう。
その点は変わらないで貰いたい。今のままがいい。これこそがホンモノなのである。
このままでホンモノが分かる人たちだけで賑わっていってほしいものだ。
決してコマーシャリズムに魂を売り渡してはならないと思う。
その時、街道灯しの行灯は下世話になり足元さえ見えぬ灯りとなり、、灯籠は華美を競い行く先を示せぬ灯りとなるだろう。
誘客や集客を競うあまりの観光イベントは懲り懲りである。流行りものではないホンモノの京の癒やしが生まれてこそ、それが奥嵯峨の魅力であり存在意義なのである。
ほんまもんが分かる径(みち)すがらを照らし出し続けていくのが、古道街道灯しの灯りのミッションではないだろうか。
嵯峨小学校の子供たちが描いた灯籠の絵を眺めながら愛宕街道を歩いた。
夕暮れてきたが、まだ灯籠や行灯には火が灯っていない。6時半の点灯式とともに手に手に灯されてゆくのである。
一の鳥居に着いた。
鳥居を挟んで門前の鮎茶屋がある。向かって鳥居の手前が「つたや」、奥が「平野屋」である。何れもTVや雑誌が好んで取材し、ロケに使われるところで広く知られている。
鳥居前の三叉路を左に行けば水尾、右に行けば清滝を経て愛宕山頂へ登る道である。
鳥居の真ん中に松明が篝火となって立てられていた。
町内の子供たちと寂聴さんの手で点火式が行われ、次々と灯籠や行灯に火が入っていく。
寂聴さんと子供たちが辻説法に街道を下ってゆくと、鳥居前の石段に立法形の二基の行灯が置かれ、鳥居の足元には鳥籠形の半円風の行灯が、その奥には大きな提灯形の灯籠が灯った。
後を追うように街道を戻ることにした。いつのまにか夜の帳が下り、軒先の灯籠や道端の行燈の薄暗くも暖かな灯りを頼りに歩いている。
そこはかとなく漂う空気感は、記憶のどこかに仕舞い込まれていた日本の夏を思い出させる。
盆提灯の吊るされたお堂が見えた。町内の地蔵堂である。地蔵盆の宵と街道灯しのコラボレーションである。
五色の短冊が笹の葉につけられ地蔵堂の軒端に立てられている。時折吹く風と灯りとに五色が光り揺れている。どんな願い事が書かれているのだろうか。
街道の先に目をやると、行き交う人を包み込むように、石畳に反射する灯りさえも、微笑んでいるかのように見える。
その先の空き地に、民家の二階屋根と背比べをしているような高さの灯籠が、何本も立てられていた。紡錘形に竹を編み幾何学模様の図案を描いた和紙が貼られている。
街道の軒先に立っていたものと同じ作り方の大型である。
地元の小学校から高校生が総でして、嵯峨芸大の指導の下、半年の期間を掛けて制作されていると聞く。その心とエネルギーは今や探しても見つからない筈で、奥嵯峨のコミュニティに拍手喝采を送りたい。
聞けば、平安建都1200年祭のパレードをプロデュースした時に、お世話になった嵯峨芸大の柴田潤先生が裏方として尽力されていると聞いて、いつも惜しみない生き方をされている人柄だと頭が下った。
民家の出格子から灯りが漏れているのも癒やされる光景である。
その薄明かりに浴衣姿の女性の影が見えた。しっとりとした浴衣姿にうっとりとさせられてしまう。まるで映画のシーンである。
どうやら手提げの提灯を売られているようだ。街道を行くには行灯で十分なのだが、思わず買ってしまいたくなった。風鈴の音が実に涼やかに耳に入る。
化野念仏寺の前まで下りてきた。「愛宕古道街道灯し」は「千灯供養」に合わせて始まったというが、実にうまくマッチしているではないか。否、主客転倒しているかも知れれない。
賽の河原の石仏に蝋燭を一本手向け合掌し、早々に念仏寺を後にした。
整理券を配られ行列をなし拝観したことで、それまでの情緒が興ざめしてしまうのを恐れたからである。念仏寺は雑誌を見て観光で千灯供養される方に任したほうが良いと思った。
まゆ村のあたりで土笛の音か聞こえてきた。気分を取り直せた。
こうして3時間の愛宕古道街頭灯しに時を過ごしたのである。
奥嵯峨に来て、日本人の心の琴線に触れなかった人はいなかったと確信している。
奥嵯峨の燈明と真心に共鳴し、感動を持ち帰らせていただいた。
花火もいらない。ライトアップなんぞもいらない。客寄せパンダや、今時の舞台装置など以ての外だ。
化粧はいらない。奥嵯峨の素顔のままがよい。