御霊さんで一初を 大田ノ沢で杜若
春祭 いずこであやめか 杜若
葵祭も終わり、今年の春祭も終盤を迎える。
日曜日と重なった15日は、洛中洛外、京都はお祭り一色だった。
上賀茂神社・下鴨神社では葵祭、西陣の今宮神社では今宮祭、車折神社では嵐山三船祭、松尾大社では松尾祭が執り行われ、おいでになっていた神様がおかえりになった。
あと洛中にまだおいでになるのが、18日御霊祭でおかえりになる上御霊神社の神様、21日が還幸祭の下御霊神社の神様で、今年は15日においでになった嵯峨祭の愛宕・野宮神社の神様は22日の日曜におかえりになる。
桜が散り出すと春祭を追いかけながら、つつじやボタンなどに出合い、癒やされた。
朝に晴れ間が見えると、自然と気分は爽快になり元気が出てくる。
花々と出合うのは天候の良いときに限る。日ごろの憂さも吹っ飛んでしまうからだ。
5月1日に神幸居祭があった上御霊神社に参詣をしたのが、ゴールデンウイーク明けである。
石塀の合間に濃い青紫色が見え隠れしている。楼門を潜る前に、境内の南西を囲う石塀と土塀の間の堀を覗いた。
「おっー 咲いてるねぇ」と、声高になる。
堀の中一面に緑の葉と濃い青紫の花が埋まっているではないか。
その前に訪ねた「得浄明院」では、今年の開花は遅れ花数も少なかったので、御霊さんの「一初」に期待を持てなかったのだが、いらざる心配であった。
御霊の杜境内の「一初」が気になりだした。
「応仁の乱勃発地」の石碑の建つ東正面にある楼門を潜ると、先に舞殿、社殿と続いている。舞殿に神輿が見える。
手水舎に向かおうと石段を下りながらも、青紫色があちこちから目に飛び込んでくるので気が気でない。
楼門内の石段のまわり、藤棚の藤の太い幹の足元、その右先の桜の木の足元、土塀沿いと、追いかけるよう歩くと神門に行き着く、境内南側の出入り口である。
神門の東側には一面に広がっていた。その先奥まった所まで鳥居が連なっているのはお稲荷さんだろう。朱赤とのコントラストで、生い茂った木立の蔭に一初が浮かんで見えた。
一初の花に導かれて、本殿の裏にまわり北側へ、数多い末社に手を合わせながら境内を一周した。
拝殿前に染め抜かれた一初の文様が掲げられている。社紋の有職桐とは対照的で、シンプルな線は爽やかさを感じる。
舞殿には三基の神輿と子供神輿二基が飾られていた。奉納された献酒を見ると、世間に名高い方の名が連なり、神社創建の歴史と信仰の篤さを窺わせていた。
延暦13年(794年)、桓武天皇の勅願により崇道天皇(早良親王)の怨霊を慰撫し、神霊と祀り、後に七座を加え八所御霊となった京都最古の神社のひとつである上御霊神社。
御霊祭の最中の頃、その境内に群れなして咲き揃っていたのが一初の花であった。
その夜、夢を見た。御霊さんの境内が一初の花で埋まり海原となって、祠や神輿を浮かべているのである。
説明するまでもないが、一初はアヤメ科の花で、他のアヤメ科の花よりも先駆けて一番に咲くところから名がつけられている。
文目(あやめ)、黄菖蒲(きしょうぶ)、花菖蒲、杜若(かきつばた)などが仲間にある。
「いづれあやめか かきつばた」と言うように、区別のつき難い仲間であるが、
一初は、葉っぱの横幅が広く、花のところから白いとさか状のもじゃもじゃが出ているのが特徴で、葉っぱの先端は尖っているが柔らかく、触っても痛くない。
乾燥に強いため、昔は茅葺屋根の頂上部分にたくさん植え、屋根を締めつけて守り、火災、大風の魔除けの意味もあったという。
文目などと同様に乾いた土に生える。
ジャーマンアイリスやダッチアイリスが渡来し、鉢植えなどされているが、元は、一初を原種として、明治期に海外で品種改良されたもので、逆輸入されたものである。
一方、杜若は乾いた土では育たない、水の中から生える。
花色は青か青紫、時に白で、花びら中央部に白い筋模様がある。
花びらの中央部はめくれ上がり、葉っぱは幅広で、筋は無く、ほぼ平坦である。
この杜若が咲くのが葵祭の時季で、上賀茂神社の境外摂社である大田神社なのだ。
神山(こうやま)や 大田ノ沢のかきつばた ふかきたのみは 色にみゆらむ
皇太后宮大夫・正三位、歌人藤原俊成(1114-1204)の和歌にも詠まれ、平安時代より人々が絶句するほどの幽玄可憐な美しさを見せ、咲き継がれている。
彼の尾形光琳の「燕子花(かきつばた)図屏風」は、大田ノ沢の杜若(燕子花)をモチーフにしたと聞くが、沢一面を被いつくす青紫を目にすれば、誰が心動かされても不思議はないのである。
大田ノ沢は、深泥ケ池と同じく泥炭地で、京都が湖だった古代の面影を今に伝え、群生する野生の杜若とともに国の天然記念物に指定されている。
数えたわけではないが、1000平米の沢に咲く杜若は約2万5000株と言われる。
今年は、葵祭路頭の儀の15日頃が満開見頃と聞いて、行列の到着を上賀茂神社二の鳥居で見届けた足で、大田神社へと赴いた。
見物客を背に「ならの小川」沿いに境内を出て、左へ折れた。
賀茂川を源にする「ならの小川」は、境内を出ると「明神川」とその呼び名が変わる。
明神川沿いは清き流れと社家の佇まいが残り、いにしえの古都を偲ばせ、せせらぎの音を耳に土塀と川の流れが心地よい。
暫く行くと、明神川の守護神である藤木社(ふじきのやしろ)である。楠の大木が立ちはだかっているように見えるところだ。
もう一足ゆくと、右手に京都市指定有形文化財に指定されている、16社家の一つ井関家で、そこを左北へ進み大田神社に辿り着いた。
参道脇の渓流から「グゥッグゥッ グウッグウッ」と、くぐった鳴き声が盛んに響き渡っている。水辺を窺うとタゴガエルの白い卵があった。
お参りをして大田の沢に入ると、期待は裏切られなかった。
葵祭の華やかな王朝絵巻を目にした後の、涼やかな目安めにもなった。
一番花が二番花に変わり、三番花が消えると皐月が終わる。
大田の沢が緑一色となれば6月で、京洛には花菖蒲が咲き出す。
そして、入梅となる。