醍醐寺 枝垂桜を歩く 伽藍編
太閤さんの力が桜美を輝かせる
東北大震災から一ヶ月が過ぎた。
9日、福島県いわき市小名浜の測候所は開花の基準としていたソメイヨシノが六輪の花を咲かせたと発表している。
桜は津波にさらされた海岸沿いの桜で、海岸から300メートルほどの場所にあり、周辺には津波の被害を受けた住宅などの瓦礫がまだまだ残っているという。
地元の人たちは、「津波の被害にも負けず、花を咲かせたこの桜を復興のシンボルの希望の桜として、これからも見守っていきたいです。」と話していた。
この発表を聞くまで、三陸海岸では桜が咲かない春になるのかと心を痛めていたが、よくぞ咲いてくれた。
同慶の極みである。この桜の綻びが、僅かながらもの心の綻びとし、明日に向かって歩いていって欲しい。
同じ空の下、同じように咲いている桜を眺め、背負う荷の重さは違えども、共に生き伸びてゆくことが肝心だ。それが同じ地球に暮らす日本人という運命共同体なのである。
京の桜めぐりをしていて、どこか後ろめたさを抱えていたが、これでどうにか吹っ飛ばすことができた。
来年は、天下人豊臣秀吉の花見に縁のある醍醐へ是非来て頂きたく、先日訪れた醍醐の桜をご案内しておこうと思う。
本年10日(旧暦3月15日/:現在4月の第2日曜日)に開催の「豊太閤花見行列」は急遽中止と決められたが、来年には復興の礎も固まり、希望の光を膨らませるに相応しい年となり、地元の花見は勿論こと、醍醐の花見に出向くほどの勢いになっていてほしいと願うのである。
荒廃衰退していた醍醐寺は、豊太閤の醍醐の花見の催しで再興した歴史を持つ。これが此度の復興の大きなヒントにはならないだろうか。
そもそも花見というものは平安時代より貴族の間で行われていたものである。
酒や肴を携えて花を愛で、歌を詠むもので、庶民には縁遠いものであった。
太閤豊臣秀吉の「醍醐の花見」を機に、庶民にも花見が広がり、江戸時代には庶民の風物詩となり、現在の花見があると言われている。
「醍醐の花見」が開催されたのは慶長三年(1598年)のことで、朝鮮出兵が思うようにならなかった豊太閤は、気晴らしのため、秀頼や女房衆など一族郎党を初めとして、諸大名からその配下の者など約1300名を引き連れて、伏見城から醍醐寺へと長蛇の行列を連ね、花見の宴に出かけたという。
その宴では、女房衆が秀吉の何番目の側室かと言う序列で言い争いになり、「醍醐の花見の盃争い」と庶民の噂になった。サルが色男になるほどの豊太閤の醍醐花見の宴は今も語り草となっている。
豊太閤は何度となく下見に出掛け、笠取山(醍醐山)一帯200万坪に広がる醍醐寺を滅法気に入ったらしく、秀頼や女房衆を喜ばせることに苦心していた。
応仁の乱などの相次ぐ戦火に荒廃していた醍醐寺が、今日ような伽藍に整ったのは醍醐の花見がきっかけになったといわれる。
醍醐寺を復興した中興の祖で第80代座主である義演(ぎえん)は、豊太閤の信頼が篤く帰依を得て、その庇護を受けることになった。
焼失し廃寺同然となっていた三宝院は、醍醐寺金剛輪院よりの改称により再興造立され、紀州からの寺院の移築により国宝金堂が再建(1600年落慶)、下醍醐の清瀧宮本殿も再建(1599年)されたと寺伝に残る。
下醍醐に残る建築物は国宝五重塔(創建951年)のみであったが、これらで創建当時の伽藍の体を整えることになった。
更に、豪華絢爛を旨とする豊太閤は、花見の支度に五奉行をあて、女房たちの衣装の調達には、南九州の大名・島津義久を命じた。1300名もの三度の衣装替えを京の着物職人に誂えさせたことから、島津氏の財政は火の車となったと伝わる。
その他の諸大名にも、権勢を競わせるような八つの茶屋支度、古今東西の多彩な献上品や余興などを供させた。
豊太閤の難題な所望の一方、諸大名の間では既に豊太閤亡き後の政権の画策もあり、互いに陰に陽にさまざまな駆け引きや腹の探りあいの場となり、豪奢の上にも豪奢な贅のかぎりを尽くした宴になることは、誰にも止められなかったのかもしれない。
豊太閤は諸堂の再建などを命じたに留まらず三宝院庭園を造営し、自らも気に入る醍醐の麓に、畿内諸国の近江、山城、河内、大和から、選りすぐりの桜樹を七百本を集めさせ、境内に移植させたのである。
そのような大胆な発想と行動は到底凡人の理解の及ぶものではなかったであろう。
豊太閤に緻密な計算があったのか、大局観があったのかは、後の世になってわかるものである。
豊太閤の信望を得ていた義演は、太閤秀吉の最期が近いことを感じ取り、一代の華美な英雄の最後に相応しい大舞台を設えるために、あちこちにそれとなく手配をし、この醍醐の花見を催させたともいう説もある。だからこそ、醍醐寺の再興が叶ったというのである。
総門から入り正面に見える仁王門(西大門)を目指し桜馬場を歩いた。
桜馬場の左手に三宝院、右手に霊宝館の長い塀が向かい合い、桜並木は満開の装いで出迎え、パノラマに広がる空間はいずこも桜色に染まっている。
広大な境内に柔らかい春の光が余す所なく降り注ぎ、そして桜の花の芳しい香りが、心に優しく伝わって来る。
両手を挙げて深く息を吸って大きく吐き出す。悠々とした時が感じられた。
天にも届きそうな数本の枝垂桜は塀内の霊宝館の甍を見下ろして咲いている。
なんと背高のっぽなのだろう。霊宝館の甍が銀色に輝いている。
塀外に並ぶ醍醐のソメイヨシノは早咲きで、のっぽの枝垂桜と競っているのだろうか。
左に見えるのが唐門である。千成瓢箪を馬印としていた秀吉も、勅使門には豊臣家の家紋である桐と菊を配している。黒地に金飾の唐門は威圧感を覚えるほどの豪勢な迫力を伝えている。ソメイの枝越しで写真に収めた。
朱の仁王門を潜ると緑の森で、参道両脇は桐紋入りの紅白の垂れ幕が張られ、行く先を導いている。
国宝金堂左脇の大山桜の枝垂が白金色の光を放っていた。朱の金堂に負けず劣らずに、こんもりと豪華な花をふさふさとつけ、威風堂々の立ち姿である。
垂れ幕が行く手を右に導く。正面が薄紅色に染まっている。足早になる。
清瀧宮本殿脇の巨木の枝垂桜だ。言葉を失ってしまった。
そのまま国宝五重塔に目を遣る。
釘を使わぬ京都最古の建造物である五重塔が、清瀧宮拝殿傍の紅しだれの海原に浮かんでいる。派手好きの豊太閤も悦にいったに違いない。
ついつい枝垂れの巨木に目を奪われるが、境内には、若木の枝垂桜やソメイヨシノ、山桜もあちこちに花や蕾をつけ、その数は千本を越している。桜の名所にあげられるに最も相応しいところである。
真っ青な空を背景に、風もなく暖かく、涼やかで清らかな空気に包まれた時が経つ。
腰を下ろし眺めていた清瀧宮拝殿から、五重塔の傍を抜け、緩やかな坂を上り大講堂を経て、弁天堂に向かった。
池に浮かぶ弁天堂は、太鼓橋を渡りお参りする。池淵のソメイヨシノが水面にせり出していた。山桜はまだ固い蕾で、醍醐の桜は一ヶ月に渡り花見を楽しませてくれる。
このあと、上醍醐登り口の女人堂までゆき、三宝院へと引き返した。
桜の名木観賞の本番はこれからで、三宝院や霊宝館の拝観などにある。
醍醐寺は醍醐天皇の勅願所であった頃のように伽藍や境内は整備され、今は世界遺産となった。
そして、平安古来よりの「花の寺」として親しまれた気風は蘇り、崇敬者からの桜の献木は今年も行われている。
(続)