天災と人災
自然との対峙ではなく、しなやかに乗り越えてこそ
2011年3月11日14時46分頃に三陸沖の深さ約25キロでマグニチュード9.0の地震が発生し、気象庁は、観測史上始まって以来の大地震となったこの地震を「平成23年(2011年)東北地方太平洋沖地震」と命名した。
この地震で火災や地割れなどの災害は激甚で、重ねて津波が押し寄せ、海岸沿いの市町村は津波に呑み込まれ土砂の中に消滅し、鉄筋コンクリート造りの公共施設だけを残した光景が目に焼きつく。
屋上や屋根に車や漁船を乗せた廃墟では、二万人を超える死者行方不明者を数え、日ごとに増す溺死者の数は、未だ全容が把握できない地震津波の大きな被害を報じている。
明治以降、津波災害の最も甚大だったのは、1896年三陸地震津波(死者22,000人)で、一番高かった津波は高さ38.2メートル地点であるという。そして、その規模の津波が今までに何度も三陸を襲ってきた記録が残る。
日本最大の津波の高さでは85m地点という記録が1771年の明和大津波(八重山地震津波)に残り、石垣島で死者12,000人という惨事だったとある。
つまり、人知を超えた自然災害というが、地震による津波災害は予期できぬ出来事ではなかったのではないだろうか。
また、1923年9月の関東大震災(関東地震)は、相模湾沖深さ80キロでマグニチュード7.9だったが、震度6弱の東京での家屋倒壊は少なく、焼け野原と化したことが示すその災害は凄まじく、焼死がほとんどで死者10万人を超えていた。
その後、地震といえば火災と叫ばれ、都市計画や家屋建築は火災から人をまもるこが重点となっていったが、戦後の復興と高度経済成長路線の中、その傷みを忘れるかのように、都市集中化のうねりは未だ止まず、世界でも群を抜き最も危険度の高い町づくりとなっている。
江戸時代よりの関東地震の歴史に残る数々の痛い経験は風化し政治は行われ,世代間に語り継がれず人々の暮らしが続けられているとは言えまいか。
1995年1月17日、阪神淡路大震災(兵庫県南部地震)があった。淡路島沖深さ16キロ、マグニチュード7.3を記録している。
1948年の福井地震以来50年ぶりとなる震度7の激震で、その直下型地震は、筋交いのない軸組構法の住宅に被害が集中し老朽化したビルとともに崩壊し、多数の圧死者を出し、死者不明者6436人に及んだ。またその1割の人は、家の中で家具などの下敷きとなった。
それらの悲しい経験は、改正建築基準法などに生かされ地震に強い家作りを促進させ、情報通信網の重要さを教えた。
しかし、今回の地震でその情報通信網の重要さの教訓は生かせたといえるだろうか。
孤立した被災者の不安を大にし、安否さえもわからず、必要な対策の実施網も分断され、的確な対応を遅らせる結果となった。
我々は地震国日本の災害に関する歴史をあまりにも知らなさ過ぎるのかもしれない。
というより、島国日本がどういう成立過程で存在し、どんな環境の国土にあり、自らが暮らす土地がどんなところなのかに無関心で、知らないのである。
つまり、いつまでも永遠に存在する島だと思っているのである。
あらためてその危機感のなさと国家の無策に落胆する。
親から子へ、子から孫へ、数代に亘るプロジェクトで引継ぎ、国を守る挑戦的な世紀計画を持たなければならないことを痛感させられる。
自らが生きる時代さえ良ければ良いということは許されないのではないだろうか。
さて島国日本列島は、太平洋の東端で湧き上がってきたマグマが冷えて固まり、それがプレートとして押し寄せられ、1億年の歳月の後に隆起してできたところで、大昔はなかったところであるという。
ヨーロッパやアメリカや中国のように、昔からある大陸から分かれたものではないのである。
そこが根本的に違うところである。
だから、いつの時代も日本は災害とともに歩んでこなければならなかった国なのである。
マグマが活気づけば火山災害、プレートとプレートの押し合いで地震災害、アジアモンスーン地帯という気候からの台風水害、土砂災害。
まるで、災害のデパートそのものなのである。
ある防災の専門家の弁に、
「日本列島は、太平洋にあったゴミだめと、そこから沈み込んでいったプレートの周辺からできたマグマの塊とで出来ている国」との説明がある。
ゴミだめとは、プランクトンの死骸や魚の骨が滞留した場所のことで、ゴミだめだった場所は石灰岩となっている。
沈み込むとは、若く新しいプレートと古く重いプレートとか出会い押し合うと、後者が岩石を溶かす地熱の深さの方へ落ちて行くことである。
日本列島は、北米プレート、ユーラシアプレート、太平洋プレート、フィリピン海プレートの四枚のプレートの遭遇点にあって、その四枚のプレートの上に乗っかっている。
そして、四枚のプレートはいつも押し合い圧し合いしているという。
プレートの境界や活断層を震源地として地震が起こるわけだが、海のプレートが沈み込むときには、陸のプレートも引きずり込まれていくのである。
海岸線が何の不思議もなく毎年沈下している事実があり、大きな地震のエネルギーが働いたときは、大幅に海岸線が移動している記録も残されている。
こんなことは、今回分ったことではなく、宿命として日本が大昔から抱えていることなのである。日本書紀には、416年日本の初の地震を示す「遠飛鳥宮(大和国/現・奈良県明日香村)で地震」が記録されている。
それほどに災害の老舗デパートともいえるところが、こともあろうに、災害の品揃えに躍起になったとは言わないまでも、放射能汚染をもたらす原子力発電所を安全だといい、災害リスクのある場所に設置を許したのである。
そして、この度の地震津波で原発緊急事態が宣言され、我々はメルトダウンの危機と不安に長期間に亘り苛まされている。
安全とは、いかなる不測の事態にも難なく解決され、危機なしに等しい安心が得られる状態のことではないのだろうか。明らかに国民は欺かれたのである。
今回の事態において、原発は人間がもたらした制御できなかった災害危機であることを否定することはできない。
地震では多くの教訓を残してくれた。
ただ漫然とこれからやってくる地震に対して立っているわけにはいかない。
果たして、我々は防災グッズを買い揃えるだけでいいのだろうか。
日常の安全と快適さに溺れ、その満足に一喜一憂する政策の国家で良いのだろうか。果たして、国土なき国家を憂うことは大げさな話なのだろうか。
地震予知研究センター(京都大学防災研究所)
http://www.rcep.dpri.kyoto-u.ac.jp/main/HomeJ.html
災害情報(国土交通省)
http://www.skr.mlit.go.jp/index.html
わが国で発生する地震
http://www.bousai.go.jp/jishin/chubou/kyoukun/rep/kouhou028_18-19.pdf