2011年Assisiにて行われた、平和と正義の祈り
「世界平和と正義の考察、対話、祈りの日」
世界から諸宗教を代表して集った300人の参加者と共に
バチカン市国内の駅から列車でアッシジに向かった。
そして、大聖堂の庭で、教皇と諸宗教代表者らによって、
世界の平和を願い、共に平和構築に取り組む意志を
新たにする祈りが行われた。
ヨハネ・パウロ二世が初めて平和の祈りのために
世界の宗教の代表者をアッシジに招いてから25年が経った。
アッシジ集会の3年後の1989年、ベルリンの壁はだれも血を流さずに倒れた。しかし、自由なる偉大な善が、新たな恐ろしい姿をとっている。
自由のための戦いが姿を変え、新たな不幸を生んでいる。
宗教者の集まりが解決の道をどう切り開くだろうか。
「松山大耕さんのFBアルバム」は、
その様子を伝えている。
→→→→→→→→→→→→無料定期購読受付中←←←←←←←←←←←←
教皇ベネディクト十六世の
「世界平和と正義のための考察、対話、祈りの日」における講話 / 以下訳文
「世界平和と正義のための考察、対話、祈りの日」における講話
親愛なる兄弟姉妹の皆様
諸教会、教会共同体、世界の諸宗教の代表者の皆様
親愛なる友人の皆様福者ヨハネ・パウロ二世が初めて平和の祈りのために世界の宗教の代表者をアッシジに招いてから25年が経ちました。それ以来、何が起きたでしょうか。現代の平和に関する状況はどうなっているでしょうか。25年前当時の世界平和にとっての大きな脅威は、世界が対立する二つの陣営に分裂していることから生じていました。この分裂の目に見える象徴はベルリンの壁でした。ベルリンの壁は、ベルリンの町の中心を通って、二つの世界の境界線を引いていたのです。アッシジ集会の3年後の1989年、壁は、だれも血を流さずに倒れました。突然、壁の向こう側にあった武器庫は意味をもたなくなりました。武器庫は人々を脅かす力を失いました。人々の自由への望みは、暴力の武器庫よりも強かったのです。この転換の理由に関する問いは複雑で、一言でそれにこたえることはできません。しかし、経済的・政治的な要素と並んで、この出来事のもっとも深い原因は精神的な性格を帯びています。物質的な権力の裏には、精神的な確信がまったく存在しなかったのです。究極的に、自由への望みは、暴力への恐れよりも強かったのです。暴力にはいかなる精神的な保証もなくなったからです。わたしたちはこの自由の勝利に感謝したいと思います。自由の勝利は、何よりもまず、平和の勝利でもあったからです。付け加えていわなければならないことがあります。このことに関連して、たとえそれも含まれていたにせよ、問題は単に、またおそらくは第一義的に、信教の自由だけではありませんでした。それゆえわたしたちは、ある意味でこれらすべてのことを平和の祈りと結びつけることができます。
しかし、続けて何が起きたでしょうか。残念ながら、それからの状況が自由と平和によって特徴づけられるということはできません。たとえ大戦争の脅威が目前にないとしても、残念ながら世界は不和に満ちています。単に戦争が繰り返し起きているだけではありません。暴力そのものが潜在的に常に存在し、現代世界の状況を特徴づけているのです。自由は偉大な善です。しかし、自由な世界はその大部分が方向づけを欠いています。そして、少なからぬ人々にとって、自由は暴力を行う自由にもなっています。不和は新たな恐ろしい姿をとっています。それゆえ、自由のための戦いが新たな形でわたしたち皆を駆り立てなければなりません。
暴力と不和の新たな姿をもっと詳しく吟味し、その本質を明らかにしてみたいと思います。次のように思われます。大まかにいって、暴力の新たな形態の二つの種類を区別できます。二つの種類はその動機づけによって真っ向から対立し合い、詳しく見ると多くの違いを示します。第一に存在するのはテロリズムです。テロリズムにおいては、大戦争と違って、特定の標的が攻撃されます。この攻撃は重点的に敵を破壊することを目指します。その際、罪のない人のいのちは一切顧慮されません。これらの人々は残酷なしかたで殺され、あるいは傷つけられます。テロ実行者にとって、敵に損害を与えるという大義は、あらゆる種類の残虐行為を正当化します。国際法により暴力の制約として共通に認められ、承認されたすべてのことは無視されます。ご存じのとおり、テロリズムはしばしば宗教を動機とします。そして、まさに攻撃の宗教的な性格が、きわめて残虐な行為を正当化するのに用いられます。こうした残虐行為は、「善」の追求のために、法の規則を度外視できると考えるのです。このような場合、宗教は平和のためではなく、暴力の正当化のために用いられます。
啓蒙主義に始まる宗教批判は、宗教は暴力の原因であり、そこから宗教への敵意が深まったと繰り返し主張してきました。今しがたお話ししたとおり、宗教が暴力の理由となっていることは、宗教者であるわたしたちにとってきわめて憂慮すべきことです。わたしたちは、もっと微妙ではありますが、常に残虐なしかたで、宗教が暴力の原因となっているのを目の当たりにしています。ある宗教を擁護する者が他の宗教者に対して暴力を行使する場合です。1986年にアッシジに集まった諸宗教の代表者が述べようとしたことを、わたしたちも強くしっかりと繰り返し述べたいと思います。これが宗教の真の本性ではありません。それはむしろ宗教の歪曲であり、宗教の破壊を招きます。これに対して、人はこう反論します。しかし、宗教の本来の本性をどこから知ることができるだろうか。あなたがたの主張は、あなたがたの宗教の力が消滅したことから生まれているのではないか。他の人はこう反論します。あらゆる宗教のうちに示され、あらゆる宗教に適用できるような、宗教の共通の本性など存在するのだろうか。宗教に基づく暴力の使用に現実的かつ信頼の置けるしかたで反対したいなら、わたしたちはこれらの問いかけにこたえなければなりません。これが諸宗教対話の根本的な課題です。わたしたちはこの集会で、この課題をあらためて強調しなければなりません。わたしはキリスト者として次のことをいいたいと思います。たしかに歴史の中で、キリスト教信仰の名のもとに暴力が用いられたこともありました。わたしたちはこのことを認め、深く恥じ入ります。しかし、次のこともきわめて明らかです。これはキリスト教信仰の濫用であり、キリスト教信仰の真の本性にはっきりと反します。わたしたちキリスト者が信じる神は、すべての人の造り主また父です。このかたによって、すべての人は互いに兄弟となり、唯一の家族を形づくります。わたしたちにとってキリストの十字架は神のしるしです。神は暴力の代わりに、他者とともに苦しみ、他者を愛するかただからです。神の名は「愛と平和の神」(二コリント13・11)です。キリスト教信仰に責任をもつ者の務めは、自らの内的中心から出発してキリスト教を絶えず清めることです。それは、たとえ人間が弱いものであっても、キリスト教が世にあって神の平和のまことの道具となるためです。
現代の暴力の一つの根本的な種類は、宗教によって動機づけられた暴力です。それは、宗教が自らの本性に関する問いにこたえるように仕向け、わたしたち皆を清めへと向かわせます。これに対して、さまざまな形をとる暴力の第二の種類は、正反対の動機づけをもっています。それは神の不在の結果です。神の否定と人間性の喪失の結果です。神の否定と人間性の喪失は、並行しています。すでに述べたとおり、宗教を敵視する人々は、人類の歴史における暴力の主要な原因は宗教だと考えます。そこから彼らは宗教の消滅を要求します。しかし、神の否定は、残虐行為と限界のない暴力を生み出しました。こうしたことは、人間がいかなる規範も、自らを超えた裁き主も認めず、自分自身を唯一の規範と考えたときに初めて可能となります。恐るべき強制収容所が、神の不在のもたらしたものであることは明らかです。
しかし、ここでわたしは国家が定めた無神論についてこれ以上語るつもりはありません。むしろ、人間の「退廃」について語りたいのです。この「退廃」の結果、静かなしかたで、それゆえにきわめて危険な形で、精神状況の変化が起こりました。マンモン、すなわち富と権力の崇拝は、反宗教となります。反宗教においては、重要なのは人間ではなく、個人の利益だけです。たとえば、幸福への望みは、抑制のない、非人間的な渇望に変わります。さまざまな形の薬物中毒に見られるとおりです。薬物を売買する権力者が存在します。そして、多くの人が薬物の誘惑を受け、心もからだもむしばまれます。暴力は常態化し、世界の一部の地域で若者を破壊しようとしています。暴力が常態化したところでは、平和は破壊され、平和のないところでは、人間は自らを破壊します。
神の不在は、人間と人間性の退廃をもたらします。しかし、神はどこにおられるのでしょうか。わたしたちは神を知っているでしょうか。真の平和を築くために、人類にあらためて神を示すことができるでしょうか。まず、これまでの考察を簡単に要約したいと思います。わたしはこう申し上げました。宗教を暴力の原因とするような、宗教の考え方また使用法が存在します。これに対して、人間が神への方向づけを正しく生きるなら、それは平和の力となります。このことに関連して、わたしは対話の必要性に言及し、生きた宗教を清めることが常に必要だと述べました。一方わたしは、神を否定することが人間を堕落させ、人間から基準を奪い取り、人間を暴力へと導くと申し上げました。
宗教と反宗教という二つの現象に加えて、世界には不可知論が広まっています。これももう一つの根本的な傾向です。信じる力が与えられてはいないにもかかわらず、真理を追求する人は、神を探求しています。このような人は「神はいない」と単純に主張するのではありません。彼らは神の不在に苦しんでいます。しかし彼らは、真理と善を追求しながら、神に向かう内的な道を歩んでいます。彼らは「真理への巡礼者、平和の巡礼者」です。彼らは二つの方向に対して問いかけます。彼らは戦闘的な無神論者からその誤った確信を奪います。無神論者はこの誤った確信をもって、自分たちは神が存在しないと知っていると主張するからです。そして彼らは無神論者たちを招きます。「論争するのではなく、探求する者となりなさい。そして、真理が存在すること、真理によって生きることは可能であり、また必要だということへの希望を失わないように」。一方彼らは、宗教者をもこう招きます。「神を自分の所有物のように考えてはなりません。そこから、あたかも他者に対して暴力をふるう権限を与えられているかのように考えてはなりません」。このような人々は真理を追求しています。神を求めています。諸宗教において、神の像は、宗教が実践される多くのしかたのために、隠れていることがまれではありません。彼らが神を見いだせないのは、場合によって、宗教者が神の像をおとしめ、ときには歪めているためです。ですから、彼らの内的な戦いと問いかけは、わたしたち宗教者への、すべての宗教者への呼びかけでもあります。「自分の信仰を清め、人々が神――真の神――に近づくことができるようにしてください」。そのためわたしは特別に、わたしたちのアッシジ集会に、この第三のグループの代表者をご招待しました。アッシジの集会は、単なる宗教教団の代表者の集会ではありません。むしろそれは、ともに真理に向けて歩む集会です。それは、人間の尊厳を決定的なしかたで優先し、平和を築くために、法を破壊するあらゆる種類の暴力をともに非難する集会です。終わりにわたしは皆様に約束したいと思います。カトリック教会は、暴力に立ち向かう戦いと、世界平和への取り組みを続けます。わたしたちは「真理への巡礼者、平和の巡礼者」であろうとする共通の望みに導かれているからです。皆様、ありがとうございます。(カトリック中央協議会 司教協議会秘書室研究企画訳)
(2011.10.28)