五郎兵衛さんの京都(その2)
~素麺にはカラシ~
落語の元祖とも言われる露の五郎兵衛さんが残した『軽口露がはなし』を基にして江戸時代中期の京都を覗いてみようという趣向だが、今回はまずこの五郎兵衛さんがどれだけ有名だったかを明らかにしておこう。
五郎兵衛さんと同時期に活躍し、大阪落語の祖とも言われている米沢彦八という人がいる。現在でも大阪では落語の各一門が集まって「彦八まつり」というのをやっている。私は去年行ってみたが、中々の盛況だった。
この彦八さんも『軽口御前男』という書を残しているのだが、その序文には次のような話がある。
彦八が京へ上ると都の若衆が
「彦八、最近、難波に何か新しいことはないか」
と訊いた。すると彦八は
「ゆうべ淀川で水がものを言いました」
と答えた。
これはどういう意味かというと、彦八は三十石船で大坂から京都に来た。船なので「水が船を運んでくれた」という意味なのだが、ここで彦八は「金がものを言う」とか「コネがものを言う」というフレーズと同じ意味で、つまり「役に立つ」といいう意味で「水がものを言った」と洒落たわけである。
すると都の若衆は
「水がものを言うなんて不思議でもなんでもない。都では露が話しをするぞ」
と切り返したのであった。
言うまでもなく、この「露がはなし」というのは露の五郎兵衛の咄のことである。
つまり、若衆は「淀川の水がものを言うよりも京都の露の話のほうが面白い」と言ったわけだ。
そこで彦八さんの序文は
「その言葉をたねとして、さらばひとはなし仕りませふ。とざいとうざい」
と締めくくられている。
岩波の日本古典文学大系に入っている『江戸笑話集』の注釈では「その言葉を材料として話を始める」となっているのだが、私は違うと思う。
この「たね」というのは「話しの種」ではなく、「ものごとの起こり」とか「起源」のことだろう。つまり彦八さんは京都の若衆から「京都の露の五郎兵衛のほうが面白いで」と言われて、「そう言われたから、こちらも面白い話をしてみせましょう」と結んだわけである。
何はともあれ、露の五郎兵衛というのはそれほど有名であったと。
その五郎兵衛さんの『軽口露がはなし』の巻一第三のお話。
ある人の所に来客があった。夏だからというので素麺を振舞ったのだが、さて薬味にするカラシが見当たらない。紙袋に何も書いていなかったので、どれがカラシの粉であるか分からなくなってしまったのだ。
てんやわんやの末にようやく目当てのものを見つけたのだが、これではいけないというので、主人は息子が帰ってくると「紙袋にそれぞれ何が入っているか書き付けておけ」と命じた。
息子は言われたとおり、ひとつひとつの紙袋に「この内に何々あり」と書き付けていったのだが、その夜、父親が紙張(紙で作った蚊帳)に入って寝ていると、息子が来てその紙張に
「この内にオヤジあり」
と書き付けた。
とまあ、これだけの話しであるが、江戸時代の京都では素麺にはカラシを薬味として使っていたのだな。私は子供の頃から素麺でもワサビを入れていたが。
もうかなり以前、蕎麦屋の晦庵河道屋で冷麦を食べたときにカラシが添えてあった。最初は珍しいと思ったのだが、実は伝統的だったのだ。
数年前、池波正太郎の「必殺仕掛人」のシリーズを読んでいら、藤枝梅安さんが鰹の刺身にカラシをつけて食べている場面があった。
江戸時代はワサビよりもカラシのほうが安くて一般的だったのかな。
また、江戸時代でもカラシは粉になっているものを水で溶いて使ったのが分かる。エスビー食品が缶に入った粉カラシを発売するよりも早く、江戸時代から同じものがあったと。まあカラシというのはカラシナの種子を粉末にしたものだからそれが当たり前なのだが。
やはりワサビと違って粉末で保存するため日持ちがして、在庫を持てるからそれだけ安くなったのかもしれない。
江戸時代にはカラシを油で練って保存する方法もあった由。ひょっとして、その当時からチューブ入りもあったら面白いのだが。
ちなみに、冷奴にカラシというのも美味しいです。
(つづく)
【言っておきたい古都がある・150】