中世トリビア(その10)
~嘘も方便、エロも詭弁も方便~
さて、前回では人間の本性には善もあれば悪もある、そして上半身もあれば下半身もあるという話をした。
さらに『沙石集』には「最近の坊主は形ばかりで仏法も知らず、布施ばかり取る」(巻第6ノ9)という批判も載っているのも既にご紹介したと思う。
そこで同書巻第6の1にあるエピソードである。
子供に先立たれた家のお葬式に行った坊主が説法で
「子供というものは交会(セックス)のときに、父の心地よきときは父に似て、母の心地よきときは母に似る。亡子息は母そっくりだったので、そのときは母の心地が良かったのだ」
と説き、恥ずかしいことを言うものだと批判されている。
まあ、この坊主は母と子の絆のようなものを表現したかったのだろうとは思うのだが。。。あまりお坊さんが大っぴらに言って良い内容のものではないだろうとも思う。
しかし、とんだところでエクスタシー講義だな。これが仏教とどう関係があるのかは分からないけど。
このように、仏教とは関係のない説法をする坊さんの話は他にも『沙石集』に収録されている。
巻第6の16。
嵯峨の能説坊は酒好きで、もらったお布施も酒を買うのに使っていた。ある日、酒屋の尼公に招かれて説法したとき、この尼公が実家で売っている酒に水を混ぜているというので、説法では仏法の事はそこそこにして、酒に水を混ぜて売ることの非を延々説き続けた。
さて、法事が終ってから尼公が振る舞い酒を出したのだが、これに能説坊が
「いつもは水臭い酒だが、今日のはちょっと酒臭い水のようだ」
と言うと、尼公が
「あんたが酒に水を入れるのはイカンと言うから、今日は水に酒を入れたんだよ」
と言い返した。
これなどは
「このウイスキーの水割りは薄いが美味い」
「これは水のウイスキー割りだよ」
という会話に似ている。
なにも少量の水を大量のウイスキーで割ったというわけではなく、グラスに入れた水の上からウイスキーを注いだという意味で。
しかしまあ、鎌倉時代はお坊さんも普通にお酒を飲んでも良かったのだ。わざわざ「般若湯」と言い繕う必要はなかったみたいだな。
まあ、現代ではお坊さんも普通にお酒を飲むので般若湯というのも死語になって、せいぜい精進料理屋さんでお目にかかる程度かもしれないが。
この尼公、マジでやったのか座興でやったのかは分からないが、ああ言えばこう言うというのもお坊さんのテクニックのひとつのようである。『沙石集』巻第8ノ10には次のような話がある。
ある坊主(ここでは僧坊の主人のこと。偉い僧侶です)が焼米を独り占めして食べていた。他の者が食べないようにどこまで減ったか印をつけて管理していたのだが、あるとき見ると急にたくさん減っていた。
これは小法師の仕業だと怒り狂った坊主が問い詰めると、小法師は「証拠を見せろ」と反論した。そこで坊主が
「お前の屁は焼米の臭いがする。だからお前が焼米を食ったのだ」
と言うと、小法師は
「御坊の屁は糞の臭いがするが、御坊は糞を食ったのか」
と言い返した。これで坊主は詰まってしまったと。
この焼米というのは普通は新米を籾のまま炒って臼でついて籾殻を取ったもののことだが、ここではその焼米で作ったお菓子のことらしい。「おかき」か「あられ」のようなものなのだろうか。それとも伏見のアンポンタンとか。。。
何はともあれ、この小法師にしてみれば自分ひとりだけいい物を食べる坊主など「クソ食らえ」だったのだろうな。
まあ、このように、鎌倉時代でもいい加減な坊さんはいっぱいいたわけである。そしてそれが「世も末だ」と言われていた。
しかし、そう言われながらもわが国は現在まで続いているわけで、これが「世も末」だとすれば随分長く続いていることになる。
お坊さんに導いてもらわなくても民衆はしっかりと生きているということだ。
(来週に続く)
【言っておきたい古都がある・141】