中世トリビア(その9)
~善も悪も上半身も下半身もある~
岩波書店の日本古典文学大系に収録されている『沙石集』は、ポルノ映画にたとえれば「ノーカット無修正版」である。抹香臭い話ばかり残して面白い話をばっさりカットしている小学館版とはテキストとして雲泥の差がある。この連載を読んでネタ本である『沙石集』も読んでみたくなった方は、迷うことなく岩波版を手に取っていただきたい。
前回で「仏教は必ずしも自殺を否定してはいない」ということを指摘したが、今回は「仏教は善も悪も上半身も下半身も差別をしない」というお話である。
『沙石集』巻第5ノ1には
「人に善性あり、悪性あり」
とあって、その二面性を指摘している。
これは「人間には良い人と悪い人がいる」という意味ではなくて「1人の人間の中には善の面と悪の面がある」という意味だろう。
そこで巻第5ノ8である。
蛇と亀と蛙が親友だった。ところが旱魃が続き食べるものがなくなったとき、蛇が亀を使者にして蛙に「遊びにおいで」と誘ったのである。
すると蛙は
「行ったら食べられてしまうから行かないよ」
と断った。
「情も好も世の常のこそあれ。かかる時なれば、えまいらじ」
友情も好意も平穏な世の中であればこそ。旱魃で飢饉が起きているのにのこのこ尋ねて行ったりすれば
「げにも危なき見参なり。ぐっと呑まれなば(中略)よみがえる道もあらじ」
くわばら、くわばら。貧すれば鈍する。
蛇にとって蛙との友情は本物だった。しかし、背に腹は替えられぬ。
性善説か性悪説かの二者択一ではなく、どちらもあるということ。
だから「このぐらいなら」と、ちょっとした悪さをしてしまうことがある。
巻第5末ノ4の話。
貧しい殿上人の土地を権門の女房の下人(召使)たちが境界線を無視して我が物顔で入り込み勝手に使用していた。
そこでこのお公家さん、訴えででも埒が開かないだろうと、権門の女房に短歌を贈ったのである。
御前(ごぜ)のまえいかにもいたせ制すまじこなたの四至もしどけなければ
この短歌、そのまま解釈すれば
「私の前庭の事はお好きにしてください。四方の境界もあいまいですので」
という意味になるが、もうひとつ「裏解釈」が可能になっている。
「御前」というのは貴方=権門の女房の「前の部分」の意味にもなり、女性の前の部分だから「陰部」のこと。
「四至」というのは「四方の境界」のことだが、「指似」と掛けて「陰茎」のこと。
つまりこの短歌は裏を返せば
「貴方の局部が丸出しでも気にはしません。私の男根も粗末なものですので」
という意味になるのである。
権門の女房も決して悪い人ではなかった。ただ、旦那さんが権力者になると周りからちやほやされ、自分まで偉くなったみたいに思ってしまうと、それが使用人にも伝染して他人の土地を侵しても平然としていた。
そこでこの貧乏公家さんは「局部丸出し」短歌で「貴方が黙認している事は恥ずかしいことではありませんか」と諭したわけである。
強いものが慢心する(局部丸出しにする)ことで弱いもの(粗末な男根)は泣き寝入りするしかないと。
人間の中には善も悪もあるからそれらはありのままに受け入れ、悪の部分が出てきたときの対処法には上半身ネタも下半身ネタもある。
つまり上半身も下半身もありのままに受け入れるわけだ。
こういう話を平然と収録している『沙石集』というのは、やはり凄い「仏教説話集」なのである。そしてそれは、とりもなおさず、仏教というのは奥が深いということなのだろう。
(来週に続く)
【言っておきたい古都がある・140】