中世トリビア(その2)
~観音様でも屁をする~
まず最初にお知らせから。
本稿で使用している『沙石集』のテキストは岩波書店の日本古典文学大系本です。
小学館の新編日本古典文学全集に収録されている『沙石集』とは内容に異同があります。
小学館版では岩波版に収録されている話がかなりカットされているのです。しかも特に面白い話が切られています。
原典を読みたい方は岩波本でお読みください。
出物腫れ物所嫌わず。
出るものは仕方がない。臭うものは避けられない。
人間だけではなく仏様でもするときはする。
しかしその話題の前に、前回の最後で少し言及した「おもてなしの基礎はおもいやり」という事を『沙石集』から拾ってみよう。
前に紹介したエピソードの次、巻第6ノ8に記されている話。
六角堂が消失した後、再建のための勧進をしているとき、聖覚という坊さんが説法をしていた。多くの人が集まっていた中で、礼盤の近くで寝ていた若い女性が
「堂の中も響くほどに下風をしたりけるが、香も事の外に匂ひて」
興ざめになってしまった。
そりゃそうだろう。しかし、下風(おなら)というのは寝ていても出来るようだが、本人には自覚がない分、自宅なら問題ないが、聴衆で溢れた説法の最中では具合が悪い。
聖覚さん、「往生しまっせ」と言ったかどうかは知らないが、そこは高僧、少しも慌てず騒がず、この女性をフォローした。
(大意)「琴や笛は美しい音を出すが香は伴わない。貴重な香はかぐわしく香るが音は伴わない。今の下風は音あり香あり。聞くべし、嗅ぐべし」
騒いでいる聴衆を静めるための方便だったのだろうが、中々言える事ではない。原文ではこの後にオチがつくのだが、現代人には分かり難い。まあ、沈香などとは違う香を供されて仏様も唖然としておられるのではないかという話。
確かに、白檀の香ならぬ下風の香を供されたのだから仏様も災難だったかもしれない。
しかし、それにしても、この女性は説法の最中に寝ていたのだから、よほど退屈な説法だったのかな。
さて、このエピソードのすぐ後に「その香」を供された仏様でも「その音」を出すときがあるというお話が続く。
大和の国で迎講をしているとき、人間界に近づいて来た観音菩薩が蓮台につまづいてしまった。その拍子に
「下風を高らかにしたりけるが、念仏の声にまぎれて、よそにはかすかなり」
派手に一発こいでしまったのだが、念仏の声が響いていたおかげで下風の音はほとんど聞こえなかったと。
これだけなら「ラッキー」で終るのだけど、何と近くにいて音を聞いた勢至菩薩が堪えきれずに笑ってしまった。
これをみた観音さんがムッとして
「コラッ、何が可笑しいねん!」
と怒ったため全部ばれてしまい興ざめして念仏の声も止み、集まっていた人たちも大笑いした由。
蓮台でコツン、おならがプー、の状況だったわけだから勢至さんが笑うのも仕方がないか。
観音さんもここはポーカーフェイスを保てば恥をかかなくて済んだのに。
しかし、笑ってしまった勢至さんも怒ってしまった観音さんも、まだまだ゛悟りの境地には遠いのかもしれない。いわんや人間をや。
「自制出来ない」というのは人間的な感情なのだろう。
これを読んでいて芥川龍之介の「蜘蛛の糸」を思い出してしまった。
カンダタさんも余計なことを言わずにそのまま登っていけばお釈迦様の所まで行けたかもしれない。
ただ、そうだからといってそのまま浄土で暮らせたとは限らない。
噂では、あくまでも噂だが、お釈迦様は退屈しのぎに時々釣りをして、このように亡者を釣り上げるのだそうである。そして手元まで来たら
「ご苦労さん」
と言って糸を切ってしまう。
キャッチ&リリースである。
釣った獲物は持って帰らずに元の場所に帰すのだ。
この話は『沙石集』にはないが、あるいはこういう事もあるというのは頭の片隅において置いたほうが良い。世の中そんなに甘くはないのだ。
しかし『沙石集』で見る限り、人間の高僧にはおもいやりがあったが、仏さんにはなかったというのも、含蓄のある話だ。
「オールジャパンでおもてなしを」とか、スローガンとしての「おもてなし」を口にする人たちに、おもてなしの心は有や無しや。
(来週に続く)
【言っておきたい古都がある・133】