陰陽師の真実(その9)
~晴明の子孫たちの活躍~
さて、陰陽師と仏教界は対立しつつも何時の間にか何となく棲み分けが出来てしまった。
それはそうだろう。全面抗争なんてことになったら双方とも元も子もなくなる。
その棲み分けの出来たのが何時頃かというと、鎌倉新仏教の興隆以来だと思う。
それまでの仏教界は国家に擦り寄って「虎の威を借る」権力を行使していたが、鎌倉時代になるとだんだん国から独立して自分たちの、自前の権力を行使するようになった。
歴史の教科書では日本の権力は公家と武士の二極構造のような書き方になっているが、実際は公家と武士と寺院の三つ巴だったのである。何故か不思議なことに、仏教界が権力の一翼を担っていたことが歴史教育から抜け落ちているのだ。
何はともあれ仏教界が国から独立し組織が大きくなると、依然として公務員としての仕事をしている陰陽師とは圧倒的な大差がついてしまった。民間業が官業を乗り越えたのである。まあ、加持祈祷の他にもお布施が入ってくるようになったので、必ずしもオカルト業に頼らなくても良くなっただろうが。
こうなると陰陽師は細々とその稼業を続けていくしかない。
もちろん、陰陽師のほうもジリ貧になる利権の維持に無為無策だったわけではない。何とかしなければならないという気はあった。
で、どんなアイデアを出したかというと、「ニューヒーロー」の登場なのである。
安倍晴明の五代後の子孫に安倍泰親という人がいる。晴明に勝るとも劣らぬ陰陽師だったのは確かなようだが、この人にも伝説がある。あの九尾の狐と対決したというのだ。
白河法皇の寵愛を受けていた玉藻御前という美女の姿が夜になると青白く光っていたという目撃者が現れた。
それは大変と、朝廷は陰陽師の安倍野泰親に依頼して事の決着を図った。
注連縄を張った結界の中に玉藻御前を入れて、泰親が対峙する。
両者の睨み合いが続いて緊張感が最高潮に達したとき、泰親が呪文を唱えて気を飛ばすと玉藻の美しい顔がみるみる歪んで狐になった。
正体を現した九尾の狐に武士たちが討ちかかるものの、相手も妖怪なので9本の尻尾をプロペラのごとく回して武士を薙ぎ倒す。
そこで泰親が呪文を唱えるや、注連縄が生き物のようにスルスルスルッと延びると狐の尻尾を絡め取ろうとした。
狐もそうはさせじと注連縄を振り切ると御所の屋根の上にポーンと飛び上がり、「いずれ災いをもたらしてくれようぞ」とか言って消えてしまったと。
その後、この狐は武士に退治されたものの、石に変化して有毒ガスを発するようになった。それが殺生石と呼ばれているものであるという。
思うに、これはまず最初に殺生石の伝説があったのだろう。その「由来」を陰陽師に結びつけた。
後付のエピソードである証拠として、この話で安倍泰親は九尾の狐を退治してはいない。ニューヒーロー誕生ならばここでカッコよく妖怪を退治してもらわねば。しかし、基になる伝説を改変するわけにはいかないから、「晴明に匹敵する陰陽師」のはずの泰親は妖怪の正体は暴露するものの、倒すことは出来ないのである。
このあたり、陰陽師一派の創作力は乏しい。仏教界に差をつけられても仕方ないな。
ちなみにこの殺生石だが、室町時代になって玄翁心昭という坊さんが砕いたという話がある。
最後の止めを刺したのは仏教であったと。
この玄翁(げんのう)和尚が殺生石を叩き割ったので、大ぶりの金槌のことを「げんのう」と言うようになったのだとか。
ホンマかいな。
何にしても、陰陽師は仏教界に押されまくりだな。
ただ、国家公務員としての晴明の子孫たちは、何だかんだ言いながらも一定の実力はあったようで、結構繁栄している。
一番の力があったのは土御門家であろう。
「え? 安倍さんじゃないの?」
と思われるだろうが、正真正銘の子孫でありながら名字が変わっているのである。
養子に行ったわけでも女系(娘の嫁ぎ先の名字)に移ったわけでもない。
陰陽師全体としては仏教界の後塵を拝しても、安倍家はわりと栄えていたのである。まあ、国家公務員の家柄だから。
泰親と同じく安倍晴明の子孫で室町時代、足利義満に取り入った安倍有世の話は来週に続く。
【言っておきたい古都がある・126】
安倍 泰親(あべ の やすちか、1110-1183年)
平安時代末期の貴族・陰陽師。陰陽頭・安倍泰長の子。官位は正四位下・陰陽頭兼大膳権大夫。
その占いが非常によく当たることから “掌を指すようだ” と「指御子 (さすのみこ)」 と呼ばれた。
同時代の貴族の日記 『玉葉』 『台記』 などに名前が登場する。
源平争乱期の人で、平徳子の安徳帝懐妊、後白河法皇幽閉、天台座主死去などの予言が的中したといわれる。