陰陽師の真実(その8)
~再び陰陽師 vs 仏教界~
弘法大師空海が皇室に食い込み、その死後もオカルト利権を手にしていた仏教界に対し、安倍晴明の「活躍」で「顧客」を惹きつけた陰陽師。両者の暗闘を説話の中から引き出す試みの続きである。
『今昔物語』の「世俗部」中には安倍晴明の「功績」を記す話があり、「仏法部」には晴明ではなく不動明王の力で仏弟子を助ける話がある。両者の宣伝戦の賜物だろう。
前回で紹介したのは仏教側から安倍晴明の「力の限界」を逆宣伝した話だったが、陰陽師のほうも負けてはいない。しっかりと空海に対するネガティヴキャンペーンをやっているのだ。
空海伝説は数々ある。一番ポピュラーなのは「いろは歌は空海が作った」というものだろう。実際は違うのだが。
だが、伝説の中の空海は必ずしも善い事ばかりをしているわけではない。
曰く、石川県の能美で村人が水を惜しんで与えなかったため空海は怒り、村のどこを掘っても鉄気のある水にした。
曰く、淡路島で村人が空海に水を与えなかったので水が涸れた。
曰く、鹿児島県では煮ていた里芋を通りかかった空海に与えなかった。すると黒焦げになったので捨てると、そこから芽が出て、出来たのは食べられない芋だった。
曰く、岐阜県にあるダケ石というのは空海が杖をついて出来た石で、これに触ると怪我をするという。
曰く、三重県にある足跡石は空海の足跡を2ヶ所残した岩で、触れると仏罰があたる。
どうですか。
※たかが一杯の水を断られたぐらいで村全体の水を鉄分の含んだものにしてしまったなんて、御仏の御慈悲もくそもあったものではない。鉄分の臭みで白湯を飲むのも不味くなってしまっただろう。ただ、鉄分不足の人にはサプリメントとして良かったかもしれない。
※淡路島で水を涸れさせたら村が壊滅してしまうぞ。空海って、血も涙もなかったのかな。
※自分が里芋を食えなかったからといって、料理していた人まで食べられなくしてしまうなんて、あんまりではないか。どこまで根性が捻じ曲がっているのか。
※空海が杖をついた石に触るとご利益があるのではなく、怪我をするのだと。怖いですねえ。
※インドでも日本でも「仏足石」といって、お釈迦様の足跡を刻んだ石を信仰する人がいるけど、空海の足跡は罰が当たるなんて。有難味も何もないな。
私はこれらの話の出所は陰陽師の一派だと思っている。敵側のカリスマ性を貶めようという意図が明白ではないか。
もうひとつ。「鬼門」というのがある。「比叡山延暦寺は平安京の鬼門の位置に建てられた」という俗説でも有名だ。
この「鬼門」だが、方位に関する迷信としての考え方が出てきたのは平安時代も半ばになってからである。しかもこのアイデアを出したのが陰陽師だった。
安倍晴明が死んでも職や利権は受け継げるが、カリスマ性までは無理である。
それまでは晴明という大親分がいたから全体が纏まっていた。もちろん、同じぐらい突出した実力のある人が後継になれば問題はないのだが、「どいつもこいつも団栗の背比べ」みたいになると「何で俺があいつの言うことを聞かなあかんねや」になってしまって結束が緩む。また、実力者がいたにしてもせいぜい優等生ぐらいのレベルでは話にならない。有難味がないのだ。
そうなると何でも構わないから皆を纏める象徴になるものが必要になってくるのだが、その役割を担わされたのが晴明神社であろう。
兎にも角にも全体が纏まったところで、個人の陰陽師には晴明ほどのネームバリューはない。依頼者が来てくれなければ余禄もないわけだから、そこを何とかしなければならない。しかし、民間の陰陽師みたいに営業活動をするわけにはいかないとなると、あとはもう陰陽師に頼らなければならない「何か」を作るしかないわけである。
そこで「鬼門」が出てくる。
平安時代は方違えの風習があったので、方位に関する迷信をでっち上げたのだ。
ところが、ここで大誤算が生じた。
東北の角が「鬼門」なら、われわれこそが都の鬼門封じである。と、比叡山延暦寺が言い出したのである。そんなもの偶然に過ぎなかった。陰陽師は策士策に溺れてしまったわけだ。
慌てた陰陽師たちは北西の角を鬼門に対する「神門」と言い出したが、こちらの方は広まらなかった。お気の毒としか言いようがない。
(来週に続く)
【言っておきたい古都がある・125】