陰陽師の真実(その3)
~どこから占いが出てきたのか?~
さて、前回で陰陽師の仕事は科学的なものであったと記した。
ならば、一体どこから占い云々などという話が出てきたのか。
これは意外と単純なことなのである。
安倍晴明が日食や月食の起きる日を割り出していたのは純粋な科学であった。
しかし支配階級の貴族たちの中にも、そういう科学を理解できる人と出来ない人がいた。出来る人は問題ないのだが、出来ない人の中には理解できない事を自分の理解できる範囲に引き寄せて「理解」してしまう人たちがいた。
つまり、科学の分からない貴族たちは「晴明は占いでその日を予言したのだ」と思ってしまうのである。まあ、大変な勘違いだ。
かくして晴明は占い師にされてしまった。
よく陰陽師は「貴族のために卜占をした」とも言われる。
これもちょっと注釈が必要だろう。
確かに「狭義の陰陽師」としてそういう仕事をしていた人もいるが、だからといってオカルトが支配していたわけではない。
だいたい、当時は決まった休日なんてなかった。基本的には年中無休である。ただ、貴族なのだから休みたいときに休めばそれでよかったはずである。ところが実際にはそうはいかない。
自由がありすぎると却ってその事由をもてあまして何も出来ないことがある。論文を書くときなど、テーマを決めてもらえば書きようがあるけど、「好きなように書け」と言われると何を書いて良いのか分からなくなったりする。それと同じ。平安貴族も休みたいときに適当に休めとなると、いつ休んで良いのか悩んでしまう。
そこで占いの出番になるのだ。
「この日がよろしいでしょう」
と吉日を決めてもらい、目出度く休むことが出来ると。
平安時代には「物忌み」とかの日もあったが、これもそれにかこつけて休んでいたわけだ。
オカルトが人間を支配していたのではない。人間のほうがオカルトを都合よく利用していたということ。
ところで安倍晴明だが、貴族から「占いで日食を当てた」と言われても、それを否定はしていなかった。もちろん、肯定もしていない。
「晴明殿は日食を当てるとは並々ならぬ占いの名人でいらっしゃる」
とか言われて
「あのね、貴方、あれは科学なの」
と答えたりはしない。
「いやいや、そのような事はございませぬ」
とかの曖昧な返事をするのである。
そうしたら貴族たちは「やはり晴明は占いの達人だ」と勝手に評価する。この答を「否定」ではなく「謙譲の美徳」だと勘違いするから。
するとどうなるか。
貴族の中には個人的に晴明に占ってもらおうとする者が現れる。
そして晴明は「特別にやりますけど、内緒ですよ」と引き受ける。もちろん、タダではあるまい。
しっかり余禄を稼いでいたのだ。
私は晴明は陰陽寮から主計寮に移動になっても、プライベートな占いはやっていたと思っている。だからこそ様々なエピソードが創られたに違いない。
その様々なエピソードの中に有名な式神がいる。
晴明は式神を一条戻り橋の下に隠していた、とかいうやつ。
では、その式神とは実際は何者だったのだろうか。
来週はその「謎」に迫る。
【言っておきたい古都がある・120】