続豊臣秀吉アラカルト(前編)
~まだまだ尽きないエピソード~
さて、前回に引き続き豊臣秀吉ネタの総ざらえといこう。
豊臣秀頼にはもう1人子供が、女の子がいた。国松は処刑されたが妹の奈阿姫(なあひめ)は助かっている。何故か?
徳川家康にとって大事なことは豊臣家の智を絶やすことであった。男の子の場合はどんなに厳重に監視していても、どこで子供を作るかわかったものではないから殺してしまった。しかし女の子の場合は妊娠させなければ良いのだから別に殺す必要は無かったのである。そのため出家させられて天秀尼と名乗らせた。この子が成長して縁切り寺で有名な鎌倉の東慶寺の住職になる。このあたり、人の運命というのは分からないものだ。
ところで「縁切り寺」というと、女性のほうから離婚できなかった江戸時代、ここに入って「足掛け3年丸2年」いれば離婚が成立したといわれるが、実際はそんなに待つ必要はなかった。
駆け込みがあるとすぐに寺から女性の家に使者が行って、関係者を寺に集める。そして双方から事情聴取をして、妥当と判断したら離婚させる。どうするかというと、男のほうに無理矢理「三行半(みくだりはん)」を書かせるわけである。だから縁切り寺というのは今風に言うと「離婚調停専門の家庭裁判所」ということになる。
ついでに書いておくと、江戸時代は男が三行半を渡せばそれで離婚になった、というのは間違い。実際は奥さんのほうが「返し一札」という三行半の受取書を旦那に渡して、これで初めて離婚が成立した。もし奥さんが離婚したくなければ返し一札を渡さなければ良い。そうすれば何時までたっても離婚は成立しないのである。
要するに建前として「離婚の申し出が出来るのが男のほうだけだった」ということで、女には事実上の拒否権があったのだ。もちろん、奥さんのほうから「別れたい」と言って旦那さんに三行半を書いてもらうというケースだってあった。決して単純な男尊女卑ではなかったのである。
次に豊臣秀吉が甥の秀次に与えた訓戒。
「茶の湯、鷹野の鷹、女くるひにすぎ候こと、秀吉まねこれあるまじき事」
この3つは自分の真似をしてはいけないと戒めているが、「女狂い」もちゃんと入っているところが凄い。秀吉さんも「あいつがこれをやったらイカン」と分かっていたのですねえ。
しかし、茶の湯も女狂いも、自分は好きなだけしておきながら秀次にはダメと言うのは、あまり説得力がないのではないかな。
もっとも、よく読むと「すぎ候こと」があってはいけない、とある。
「過ぎては」いけないと。
つまり、ちょっとぐらいはよかった。「ほどほどにしなさい」という戒めなのだ。
でもしかし、秀吉自身は「ほどほど」ではなかったのだから、あまり説得力がないのは同じだな。
秀次にはこれほど厳しかったのに、秀頼となるとまた別で、秀吉は死の三ヶ月前に病をおして伏見城に出座し、諸大名を引見した。秀吉の隣には6歳になった秀頼もいて、「せめてこの子が15歳になるまで生きていたい」と涙をこぼしたとか。
秀吉といえば教科書でも有名な「刀狩」もやっているが、これに対する正反対の評価。
①町人や百姓から武器を取り上げて武士が独占し、武士の支配を強化するのが目的だった。
②政治には太刀も刀もいらず、という平和主義の政策だった。
事実はひとつでも、それを見る角度によって色々と変るのですね。
秀吉が定めた刑罰に「一銭切り」というのがある。これは「一銭も残さず財産を没収する」という意味なのか、「一銭銅貨を切り刻むように罪人を切り刻む」という意味なのか、不明なのだそうだ。
「不明」というのは、結局、「実際には執行されたことがない」ということではないかな。
たとえば「鋸挽き」という刑罰があった。書いて字のごとく鋸(のこぎり)で罪人をギーコギーコと挽くのだが、これは晒し者にした罪人の横に竹製の鋸が置いてあって、道行く人に好きなだけ挽かせたという。
しかし、その鋸が竹製だったとうことから、本来は見せしめのための象徴的な刑罰だったことが分かる。ところが徳川時代に(あろうことか)本当に挽いた人がいて、幕府のほうがビックリしてこの刑罰はやらなくなった由。
このあたり、法と現実は一致しないので気をつけなければならない。
と言うことで、続きは来週に持ち越し。
【言っておきたい古都がある・89】