小学校で英語を教えるなんて止めてしまえ、という話・その3
~文化の発信には英語より大事なものがある~
私が小学生の頃は国語の教科書にアルフォンス・ドーデの「最後の授業」という作品が掲載されていた。今でも載ってるのかな?
晋仏戦争でフランスが負けたため、アルザス地方はプロイセン領となり、学校でもドイツ語しか教えてはいけないことになってしまった。そのとき先生はフランス語で行う最後の授業でクラスの生徒に語る。
「ある民族が奴隷となっても、その国語を保っている限り、牢獄の鍵を握っているようなものなのです」
そして先生は黒板に「フランス万歳!」と書いて最後の授業を終えるのである。
文部科学大臣をやっている下村とかいうオジサンは小学生のときにこれを習わなかったのかな。
それとも、いずれ日本語で行われる最後の授業にやって来て、「アメリカ万歳!」とでも書くか。
日本の文化は日本語で教えられ受け継がれてきたのである。
江戸時代というのは凄かった。大多数の人が文字を読むことが出来たのである。
「札の辻」というのは地名にもなっているが、本来はその辻(四つ角)に立て札を立てて、そこに色々なお触れを書き出したわけだが、お触書を街角に書いて出しておくというのは、その当時の一般の人たちがみんなそれを読むことが出来たということ。識字率はかなり高かった。
ほとんどの人が寺子屋に通って読み書きそろばん(国語と算数)を習っていた。
別に幕府がそれをやれと言っていたわけではない。みんな自主的に通っていた。厳密には子供を通わせていた。教育水準は高かったのである。
京都でも教育には熱心で、番組小学校というのは明治2年に出来ている。明治政府が文部省を作ったのが明治4年、学制を定めたのは明治5年であるから、京都の小学校のほうが早かったのだ。
「後から出来たくせに偉そうな事を言うな」と軽くあしらうならともかく、文科省の尻馬に乗って小学生の英語教育を強化するというのは、京都市も志が低くないか。
もちろん、世の中というのはそんなに悪いことばかりではない。
この2月9日、伏見区の慶福寺で「まなあそび」というイベントが開かれた。
これは遊びを通して伝統文化への理解や表現力を育む取り組みである。主催したのは京都府内の小学校教員らで作るNPO法人「京都子ども教育ネット」である。「遊びこそ社会で役立つ知恵を養える場」というコンセプトで企画した由。
百人一首の絵札を20枚ずつ5色に分けた「五色百人一首」などのゲームのほか、漫才にも挑戦したという。
小学校の先生たちが協力してこのような取り組みをしているというのは素晴らしい。。。。と書きたいところなのだが、これって、本来学校でやってもいいのではないか。それが出来ないから先生たちがわざわざNPO法人を立ち上げねばならないのだ。そんなことをしなくても、本来の学校の授業の中で出来るよう、先生の側にもっと自由があってもいいと思う。
ちなみに、このイベントの中でも「英語のゲーム」が採用されていたという。
「文科省の方針にも従っています」という「アリバイ工作」なのだろう。
先生方の気苦労を察することが出来る。
同じ日、大徳寺の塔頭・大慈院では子どもたちが寺の修行を体験する「禅寺で学ぶお寺のこと!」が開かれていた。こちらは京都市の課題を市民が考える「未来まちづくり100人委員会」寺社チームの主催。参加した子どもたちは雑巾で方丈の廊下を掃除してから座禅を行った。
小学校で英語を教えるよりもこっちのほうがよっぽど文化を発信できる人材を養成できるのではないか。
未来まちづくり100人委員会というのは京都市の肝煎りではなかったのかな。お役所だってやることはやっているのだから、小学生から英語をやらせるなんてトンチンカンはやめにして、日本文化そのものを教えるようにしようではないか。
英語というのは今までどおり中学校からでよいのである。
【言っておきたい古都がある・71】