新春祇園めぐり(その4)
〜歴史も色々ありまして〜
弁財天から白川沿いに歩くとすぐに大和橋である。江戸時代の『花洛名称図絵』からとった風景が着色して展示してある。
これで見ると祇園というのは身分に関係なく色々な人が遊びにきていたのだと分る。
近年、「士農工商」というのは「差別語」だとかでテレビでも使わせてもらえないそうだが、とんだ誤解である。
この言葉は身分差別ではなく、単に職業の分類を示しているに過ぎない。
もしこれが「身分差別」なり「階級差」を現しているとすれば、どうして公家と僧侶が入っていないのか?
明治になってタテマエとしては「四民平等」になったことを強調するために、「江戸時代はこうだった」という政治的宣伝に使われた言葉ではないのかな。体制がひっくり返ると新体制が旧体制の悪口を言うのは定番である。
白川沿いには「いかにも京都らしい」店が立ち並ぶが、最近ここにサギがやってくる。生きた本物のサギ。たまに来るのである。
どうも一度どこかの店で餌を貰ったらしく、「味をしめて」やって来るようになったようだ。
実は写真でも屋根のところにサギがいるのだが、分るかな?
サギと言うのは人見知りしない鳥で、人間が近くにいる場所でも直立不動で悠然としている。だから多くの人が作り物と間違えるんですね。
以前、陰陽師編を週に1回やっていたとき、神泉苑での説明の最中、サギがヒョコヒョコと出てきて私の前を横切った。しばしの沈黙の後、爆笑。
あの時はお客さんも(いつもとは違った意味で)大満足だったようである。
ことほどさように、サギというのは人間を気にしない。ひょっとしたら、人間を馬鹿にしているのかもしれないが。あるいは、珍しい生き物がいるとばかり、人間を見物しているのかも。
サギがいるかいないか、これはもう運次第。当たりかハズレが、毎週金曜日に催行の「京都ミステリー紀行・祇園編」に参加されては如何でしょうか。
さらに歩けば有名な「かにかくに」の碑である。
<かにかくに祇園は恋し寝るときも枕の下に水の流るる>
吉井勇の短歌だが、さて、では吉井勇というひとは文学者としてどのような作品を書いているのかというと、これが誰も知らないのである。しかし歌碑が出来るのだから偉い先生には違いないのである。
どれだけ偉いかと言うと、かつて岩波文庫に『吉井勇歌集』というのが入っていた。今は絶版のようだが、図書館で探せばあるだろう。
吉井勇のような作家は、筑摩書房あたりが出している膨大な日本文学全集に3人か4人で1冊に入っている。その程度の偉さである。それでも偉いには違いない。
そういうマイナーな偉さをもつ人物がよく頻繁に祇園で遊べたな、という疑問を持ってしまうのである。パトロンがいたのか。それとも実は借金をしていたのか。
谷崎順一郎とも交友が会ったようだが、谷崎は吉井にお金を貸して返してもらっていないかもしれない。
今年創刊90周年の文藝春秋は新年号で「新・百人一首?近現代短歌ベスト100」を選定したが、その中にこの「かにかくに」の歌も入っている。
「デカダンスの匂いを微かに漂わせながらも、全体として不思議に明るい幸福感を伝える」のだそうである。
ちなみにこの歌は大正4年(1915)の『祇園歌集』に収録されている。祇園をテーマに歌集を一冊作っているのだ。
本当に、どうやって金を作っていたのやら。
しかしまあ、あまり固いことは考えずに、祇園情緒を楽しむのが良いのかもしれない。
ぐるっと回って巽橋に戻る。
橋を渡ればこれまた「いかにも祇園」という店並みなのだが、いかんせん、ちょっと距離が短いようで。
テレビなどで見ると、ここがずーっと長く続いているような印象を受けるのだが。
まあ、ここでも堅い事は言わずに進めば「京都花街健康保険組合」の看板が。
21世紀になると、このような世界でも身分保証がないと人が集まりにくいのだろうか。
ここは八坂女紅場でもある。芸舞妓が芸事のお稽古をする場所だ。
カリキュラムには踊りのほかお茶、お花、書画、能、長唄、笛、その他色々。美味い下手は別にしてこれだけこなさなければならないのである。大変なのだ。
情緒とは縁の薄い現代的な並びの中を抜けて四条通に向かって歩くと、有名な鯖寿司の「いづう」や蕎麦の「権兵衛」がある。
町並みは新しくなっても古くからある店は健在である。
四条通に出るとすぐ目の前にあの「一力」を見つけることが出来る。
この店こそ「祇園のシンボル」だろう。そして「一力」と言えば「忠臣蔵」ではなかろうか。
来週はこの話題から始めよう。
【言っておきたい古都がある・33】